エッセイ・評論

詩誌評

書かれたものの「おもしろさ」

詩と思想2010年3月号


 詩誌評を始めたい。はじめに、わたしの評の取り上げる基準について。わたしの入手した詩誌(謹呈もあれば、自分で買ったものもある)について、個人的に印象に残ったものを上げたい。印象に残ったものとは、詩の内容と、本(詩誌)のデザイン・造り・コンセプトなど。またイベントやインタビューの記事や評論・エッセイなどもあるかと思う。
 詩は言葉の芸術であって、どのような手法、題材、思想等をとっていようと構わない。また、読む側にとっては、書かれたものが全てになる。語弊があろうと、なかろうと、わたしは作品に「おもしろさ」を求める。わからないものの「おもしろさ」もあるが、ただわからないだけのものを「おもしろい」とはいわない。またあたりまえのことをあたりまえに書いて、「おもしろい」か、どうかは、作者の技量や姿勢や着目・視点ほかによるかもしれない。では、順不同、敬称略に、誤読を恐れず行きたい。
 
「ヒメーロス」十二号(発行・天使舎 小林稔)から。
「詩と批評」とある。薄手で、白地の表紙にレオナルド・ダ・ビンチ「弟子サライのデッサン」が置かれている。
「火」小林稔。
 いくつかの連・場面において、「火」(炎)が何物かを燃やしていく。
「アルミ箱の浅い水で身を立てられず尾をばたつかせる鯉。
 火粉を上げる炎が狭いお堂の真ん中で勢いづき、経文が女祈祷師の口から怒声のように吐き出され、炉のまわりに幾つもの赤い顔がつらなり忍従している。――隅々に視線をめぐらす幼い私がいる。」
引用の第一連は幼いころの「私」(話者)が見た光景であり、二連では小学生のころの「私」が見た火事の光景であり、それ以降の連は、TVニュースから流れる、失業者の焼身自殺について。
 また十三階のバルコニーが燃えている連が続き、それまでの描写性よりも、ここでは観念・概念的な部分が出てくる。
「沃土、すなわち経験の地層に撤種された未生のロゴスが千のコードに群がり絡まる。私を呼び止めた言葉を紐解く者よ、あなたをもとめ、死後も私はさすらうだろう。」
 そして最終連、最後の行に「エクスタシーの波動に導かれ私はすでにあなただ」、と転換し結ぶ。現代の世相も反映しつつ、「火」に快楽のようなものを感じ、そのある種の異様さは、話者の「私」だけではなく、たとえばこれを読む「あなた」でもあるのだと。視ることの、残酷さと悦楽に読み手も捉えられるのだろう。
 
「日本未来派」二二〇号(発行・日本未来派の会 西岡光秋)
「詩と評論」とある誌で、多数の同人が在籍し、号数も実に多い。詩のほかにも、韓日交流のイベント記事や詩や詩集に関するエッセイほか一二〇頁の内容。
その中から、一見素朴な感もある作品を。
「いたみ」野上悦生。
「にんげん
じぶんのいたみはわかっても
たにんのいたみは
けっしてわからない
わからないとしったうえで
しゅっぱつすることで
すこしでも
あなたのいたみに
ちかづきたい」
 全編ひらがなによるヒューマニズム的な作品。「あなたのいたみに/ちかづきたい」はより相手に踏み込んでいくさまである。奇をてらうこともなく(ある見方をすれば「あなたのいたみに/ちかづきたい」以外は当たり前のことを書いているともとれる)、誠実にまっすぐに物事をとらえていこうとする作者の姿勢や視点がある。またひらがなだけで構成された、祈りにも似た詩の形は、この作者の作品以外にもときおり目にするが、それでもなお、うつくしい。
「アンモナイト」森れい。
「巨大な巻貝と化した/螺旋の闇を登りつづけると/隆起した岩肌に辿りつく/鉱?に腕を差し入れて/まだ呼吸している生物の生温かさに/うっとりと昂揚する」
 一部分に「鉱?」という文字化けのような怪しい部分もあるが(活字はいつまでも残るから恐ろしい)、子どものころ、化石にロマンや好奇心を寄せていたことを思い返せた。少年期の、たとえば学校の理科実験室や資料室の薄暗さにこもるような懐かしい匂い。あるいは巨大な水槽のある博物館にでもいるような。さらに自分自身がアンモナイトの泳ぐ海に潜っているような。
 ほかに「『絶壁』の思想―佐川英三の死生観を読む」石原武の論考に、厳しく生と死をみつめ詩作をしていた詩人の姿を視た。
 
「交野が原」六七号(編集発行・金堀則夫)
「市場にて」瀬崎祐。
 市場の片隅で、売られている様々な品。それは「異様に手足の長いあやつり人形」「反りの入った長い包丁」「極彩色に塗られた仮面」など。そして、「皮を剥がれ 血抜きをされた獣の肉」。
 獣の肉を買い求めると、女主人はそれを切り取っていく、と、自分(話者・客)の肉も欠けて血がにじむ。
 次の連で「味付けを誤ると正しい供養は出来ないからね」と女主人に言われる。
「言葉を失うということは こんなにも見ることや嗅ぐことに耐えることだったのか/私は獣の肉をうけとり それから 傍らに棄てられていた獣の皮を頭からかぶる」
 異様な、不可思議な、幻想とも寓話ともとれる作品から、すえた血肉の臭いがしてくるようだった。
「初陣」渡辺めぐみ。
 兵士にとって、それは初陣だったのだろうか、それとも転生して「地虫」として初陣になるのだろうか。
 倒れた兵士は「地虫」として生きることを強いられる・あるいは死んだ兵士は「地虫」として新たな生を獲得・もしくは強いられる。
「声は続き/弾痕に託された怒りのまま/兵士は夜の眠りに落ちた/地虫として念を残して//かくして地虫第七万八千二百三十一号の誕生である/当然のように夜が明けた」
 これもまた不可思議、またいくらか不条理感のある作品であった。生者と死者、地上と冥界の寓話性。
 この誌は、詩作品のほかにも書評・論考や小・中・高校生の詩賞として「子どもの詩広場」などがある。
 
 
「プリズム」六号(発行・プリズムの会 代田勉)
 シンプルな白い表紙の薄い誌、「詩と評論」とある。
「銀の絹糸」石川厚志。
各連最終行に「……御座いません」とそれまでの行の文脈の否定形となっている。最終連のみ「……御座います」になる。ご丁寧な語り口。こういう口調はたいがい相手(作品の中の)に対する何かしら(恐れや誤魔化し・隠匿や茶化しほか)であったりする。
「御潰れになられましたのは/仔猫なので御座いまして/古びた女工なのでは御座いません」
 出前のオートバイはねられあるいは潰れたのは「仔猫」なのか「古びた女工」なのか。話者の男は、はねられた「女工」のことや、潰れた「仔猫」の細かな状況などを必死で話している。おそらくだれか(警官かもしれないし)に問われているのだろう。
「タイヤの溝から浮き上がりましたる一本の銀の絹糸か/ゆらりゆらりと揺れていたからなので御座います」
 この怪しげ話者は弁明する。本当のところはわからない。なにかの講談を聞いているような、この作品にはおもしろさがある。
 
「空想」三号(発行・詩誌空想)
 手にとると文庫本ぐらいの小さな本。表紙の画は、裸の胴体の像。
「拝啓、君は元気ですか」たけだたもつ。
 平明な言葉。うっかりすると、ごくふつうの街・町の光景から始まる、人生を旅にたとえる話のようだが、そうではない巧みさと着目を感じる。
出だしの「まだ夜の明けないころ/街は少し壊れた」
 でなにかが起こったことを予感させる。
「何も知らない象の親子が/道の横断歩道のないところを/ゆっくり渡っている」
 など定型(ありがち・ワンパターンとも)の意味やイメージを脱臼あるいは、ずらしていく。
後半部分をそのまま引用すると。
「あと数時間もすれば
 街にひとつしかない駅から
 朝一番の鈍行列車が発車する
 いくつかの列車を乗り継ぎ
 乗り継いでいるうちに
 人はいつか死んでしまう
拝啓
 覚えた言葉は
すべて捨ててしまって構わない」
の締めの連。なんとも、ひとの一生のあり方と、言葉についての諦観を感じさせてしまう。「拝啓」以降の三行は、唐突感もある、とでもいえばよいのか。
古月。
現代詩というジャンルではないかもしれないが、
「夢でみた女を殺す夢を見る」
「如何しても女が写るレントゲン」
「冷蔵庫おんなをふたり呑んでいる」
「食肉加工工場のはずがない」
「人形に宿れば鬼も可愛いかろ」
など、いくつもの凄みを秘めた五七五調の言葉たち。
 
 
「月暈」三号
 ブルー(寒色)系の表紙、簡素で薄い誌。若手・新人数名によるものらしい。
「狐女子高生」文月悠光。
「この学校ができる前はね
ここで狐を育てたんだって。
そう告げて、
振り向いたあの子の唇は、とても青い
狐火だったね 覚えてる。
 
(狐女子高生、養狐場で九尾を振り回す。
(狐女子高生、スカートを折る。
(短きゃなお良い至上主義。」
 
 そこここにほのかにエロス性もあり、怖さもあり、ユーモアもある。この詩自体が、読者を心地よい化かしに導いてくれるかもしれない。
「青い口紅 倒れたほうへ
いらんかね いらんかね
油揚げを売り歩く放課後。」
ほかに大谷良太、望月遊馬の散文詩など。
 
「詩区」一二五号(連絡先・池澤秀和)。
 コピー用紙にプリントされたものをホチキスでとめた誌。各執筆者のワープロの書体・文字の大きさもさまざまで、手書きのものもある。縦書きの作品に混じって横書きのものもあり、各人それぞれ持ち寄った原稿を綴じたもののようにも思える。
「助けて」小川哲史。
 六歳の女の子が、カンボジアなのだろう、部屋で買春かなにかをさせられている話。話者はその女の子。詩としていいかどうか、たとえば「わたしは六歳の女の子」という出だしにあるように、説明的な部分は疑問だが。状況や語りの切実さはあるかと思う。実際にありそうな話でもあるが、幼すぎるような。現代の貧困層、その底辺に生きるのがやっと。それでもなお、愛情を求めてやまない子どもの気持ちを詩情としている。
「母さんひとり/どうしているのでしょう/会いたい/会いたい/母さんに//わたしを売った父さんだけど/父さんに会いたい/どこで/どうしているのかしら」
 
自分の編集発行の誌でもあり、一一月という、評者交代の端境あたりに発行されたので、扱っていいかどうか微妙ではあるが。
「狼+」一七号。作品(文月悠光、伊藤浩子、加藤思何理、望月ゆき、ダーザイン、コントラ、光冨いくや他)、イベント記事(野村喜和夫+三角みづ紀トークショー、野木京子朗読会)、文月悠光へのメールインタビューなど充実しているとは思う。自分の編集発行の誌なので作品については触れない。
 
 また最近話題の誌TOLTA四号(発行・TOLTA)。毎回違う趣向を凝らしての誌の形。今回は四角いフォルムに、段ボールの素材に似た厚紙による表紙。特集として「十四歳のための現代詩」。見たところ、「現代詩手帖」で活躍している若手・中堅たちを主な執筆陣としている。
 ここではベテランの、
「青い腫れ物」北川透
「十四歳、ぼくはぼくが嫌いだった。
村の男の子たちが誇らかにするように、
青大将を手掴みしたり、
首に巻いたりできなかった。」
十四歳というテーマに合わせた作品なのだろう。思春期にありがちな、自意識と自己嫌悪と罪悪感(このあとの連で、話者が妄想の中で少女を犯したことの告白)といえばいいのだろうか。
「十四歳、ぼくはぼくが死ぬほど嫌だった。
ときどき、青い腫れ物にさわるように、
ぼくの指はぼくに触れた。」
話はすこしそれるが、わたしも自分で自分が嫌いだった。十代から三十代くらいまで。四十代になり、自分のことをほんとうに、そのまま好きになってくれる人間は自分以外にはいないと悟った。
この誌は、「トルタかるた」として絵を配置したり、巻末に「十四歳年表」を付けたりして遊び心もある。手にとって楽しい造りとコンセプト、アートと詩の雑誌としては、大変優れている。インタビューとして小笠原鳥類、佐々木敦など、また各人のエッセイが興味深い。
 
 さらに「稀人舎通信SPECIAL4号(発行・稀人舎 小林裕)。詩はないが、エッセイや対談やマンガやイラストや小説等。特集は「ケータイ小説」のことを考えてみようか」。ケイタイ小説について、語っていく。メールの往復書簡で、川口晴美と小宮山裕は、ケイタイ小説の主人公には精神性がない、といっているようだ。じつはわたしはケータイ小説を読めなかったりする。

 


詩誌評

その詩に伝わるものはあるか、ないか

詩と思想2010年4月号

 
 詩誌評を始めたい。前回は「詩のおもしろさ」についてすこし触れたかと思う。わたしは「おもしろい」ものを選びたいと。「おもしろい」とは「良い」「美しい」「感動する」「興味深い」などの意味合いになる。
今回は「メッセージ性」ついて。詩はメッセージではない(目的)、伝達手段ではない、とそのようなことがわたしの生まれた一九六〇~七〇年代には言われていた。よく引き合いに出されるのは、入沢康夫氏の名前や言葉だろうか。それに対し、近頃わたしが耳にするのは、いやメッセージも必要なのだ、そうでないと、すくなくても一般読者には受け入れられない、読んでもらえない。つまりは現代詩が、コアな読者以外には読まれていない理由である、というもの。読者は十人でよいのか、百万人に読まれるべきなのでは、というものなど。多少、言葉や定義や意味合いにニュアンスの違いや混在はあるかもしれないが、ざっとそんな感じだろうか。
 詩誌評の欄では語り切れないが、わたしの見方を言うと、志向性の問題で、どちらもあってよいということになる。書いていることがはっきりとはわからなくても、あるいは内容があまり感じなくても、美しかったり、おもしろかったり、新しかったりすれば、それもよい。たとえば意味やイメージや規範を壊す、ずらす。何も語ることがないということを語る。表層の遊びやナンセンス。視覚詩やアクロバティックな作風もまた作品によってはおもしろい。
 また意味やイメージがはっきり伝わり、内容のあるものもよい。ひとの生きる姿、背中、手、表情。そして逝ったものたちへの献花。祈り。さりげなさのなかの、深さ。人生や社会に対する問いかけ・怒り・嘆き、歴史や思想に関する記述や考察などいくらでもある。言うまでもないが、内容と形式がありきたり(平凡)なものは、残念ながら、印象にも評にも残らないかもしれない。
 わたし自身はメッセージを伝えることを第一に詩を書いたことはないが、読み手が何かを受け取ったり、解釈したりすることはあるだろう。
 前置きが長くなったが、そういう見地で詩誌評をしていきたい。順不同、敬称略で。
 
「左庭(さてい)」十五号(編集/発行・山口賀代子)。
山口賀代子「絵図」
「長い砂洲のかなめにある寺の地獄絵」を視る話者は、
「この世で悪さをするとほらあんなふうに
地獄におちるのよと諭す祖母の手をしっ
かり握り
じりじりと後ずさりしながらのぞき見る
明日も明後日もおとなの死んだのちのな
がい時間も
おなじ
血の池地獄も 針山地獄も餓鬼地獄もい
つかくるかもしれない
はてしなくつづく怖い夢のようなもの」という、子どものころのリアルな地獄絵の恐しさを語る。やがて大人になり、「知りたいことも 知りたくもないこともみてしまった眼に/地獄絵は情報の一部に」なってしまう。
 そしてすっかり歳をとってしまった自分は「死んだら土になりたい」と思う。その枯れていくさま、諦めていくさま。「死者からの返事はもどってこない」というラストはまるで、読み手も、もうろうとした闇に包まれてしまうかのようである。
山口の詩「サーカス」の「遅くまで遊んでいると子捕りにさらわれサーカスに売りとばされる」といううわさを怖がる話や、太宰治に関するエッセイ「ほんとうは好きなくせに」など、興味深く読んだ。
「なぜ嫌いなのかと問われたら、弱さを売り物にするポーズ、甘えが許されるという前提でまた甘えるという姿勢が好きになれないのかもしれない」と語る。
 すでに有名になっていた太宰に「あなたのことが嫌いです」と若い三島由紀夫が告げたあとに、タイトルにある言葉をもらした、有名なエピソードにも絡めている。
 
」三二号(上野菊江個人誌)。
「シマウマ」の前半は生態系について語り、後半部分は次のように展開する。
「オレはシマウマだけど
どうも役割が気に入らぬ
ライオンになろう
 
あしたからライオンになって
ほかのヤツを食うことにしよう
象の足でも齧ってやろう」
と引用した後半は自らの役割を変えようと決意している。
寓話性があり、他者から決められた役割をこなすことに忠実な日本人などが、職場・環境での配置転換・転職を願う、という立場に置き換えることもできる。もちろん、文章通りに、シマウマが(あるいはライオンに変身して)、象の足にとびつくさまを想像するのも楽しくてよい。この作品は平易な言葉で、ユーモアと毒もある。いまわたしたちに必要な詩の精神かもしれない。
 横長の小冊子、淡いブルーの表紙に「餐」のタイトル、その横に小さく連なる「餐」の文字。シンプルでしゃれている。
 
「索通信」8号(発行・坂井信夫)
坂井信夫「タダイの末裔―8」。
「詩人Kにとって、年金生活者となった三五歳のニーチェは羨ましかったにちがいない」で始まる。エッセイのような散文詩だが、この虚無感というか、無気力感の「詩人K」は、わたしの姿に一部重なりもし、あるいは尾形亀之助のイニシャルかなとも思ってしまう。だれでもよいか、だれでもないのかもしれないが。「書く」ということ、「働けない」ということ、それから「酒」。
 ほかに坂井の「島村洋二郎の痕跡・補稿」も印象に残った。芸術家・島村についての連載の補足で、その姿が断片的にだが、かいま見ることができた。
 
「竜骨」七十五号(発行・竜骨の会 高橋次夫・友枝力)
森清「粉末」
「骨壺に入っているのは/骨ではない/粉だ」という冒頭。骨は粉になり計量化され、骨壺にはバーコードが貼られる。そこに情も温もりもなく。
そして、
「彼の部屋は消され
持ち物は下着まで剥ぎ取られ
その履歴は酸化して飛び散った
そこに 空はない
錆付いた風景が
あるだけだ」
 生きていた痕跡・部屋もなくなり、あるのはただ乾いた風景。寒い風音がしてくるようで。その無常観と、そしてひとという存在の顛末と、空白のいいようの無さ。
 
「石の詩」七五号(発行・石の詩会/編集・渡辺正也)
永遠のコドモ会」から「かげふみ」高澤静香
子どものころの、あるいは子どもたちのかげふみのひらがな詩。
「にげまどう
あみめの かげのなか
たかく てを あげて
つながったまま
なにかが たりない
こころ」
 2連構成の作品でそのうち後半の2連目を引用してみた。小品だが、手をつないでいるのだが、「なにかが たりない」にいい意味でひっかかってしまった。いろいろ考えられる。
「かげ」というものは、頼りなく、怪しげで、つねに自分のそばにいる分身であり、そして満たされずに、さびしげである。
 ほかに北川朱美のエッセイ「三度のめしより(二十九)」など。嘘にまつわる話。饅頭、あんぱん、会社の上司、小林秀雄と中原中也、釣り人の自慢話などに移り変わっていくさまもまたおもしろいかもしれないが、やや事柄をつめこみすぎか。
渡辺正也の「海辺の町の七十歳」も、海沿いで印章を彫る男の話で、作品のなかに小説か映画にでてきそうな雰囲気がある。
 
「この場所ici」2号(発行「この場所ici」の会/編集・鈴木正樹・谷口ちかえ・三田洋)。
三田洋「哀しい時空」
モンゴルに誘いをうけて、ムンフさんに会いにいくも会えずに帰国。
「会えないまま帰国すると/素晴らしかったでしょう?とみんなが聞く/愛しいムンフさん どうしたら会えるの?」
 ついに会えずじまいなのだが、なぜか気になるひとというのもいる。会えないからなおさらなのだろう。もどかしさと残念な思いが伝わってくる。
エッセイ「カナリアの歌―北の島からの手紙」荒木元
亡き田村隆一に向けた現代詩を憂う書簡になっている。
「しかし、「詩」は一部の選民のものではなく、ごく普通の生活感覚からでも読み味わえるものであるべきだと私は思っています。……」。また「「詩は難解なもの」であることを当然のこととして始めなければ何もはじまりません」、「詩の教室」などで詩が「家元制」「伝統芸能」化しているとも述べる。
新しい詩の表現を目指し、後退をしないはずの「現代詩」が、「伝統芸能」という保守的なものにも見えるという矛盾、皮肉さ。
 現代詩について様々な考察や引用をしている。そしてこう結ぶ。
「ああ、田村隆一様。時代はゆるやかに侵食され次の地殻変動を待っているかのようです。それまでは、あなたのように深く沈潜し、「詩を書くこと」と「詩を読むこと」、そして「考えること」と「生きること」が一体となった悠然とした時を過ごしたいと思っています。」わたしも同感である。
コラム詩論「感情とは意味である―萩原朔太郎」では、「詩の根源とは「感情」である。しかし私たちは感情についての限りない考察や追及を怠ってきたのではないか。」と三田洋は語り、朔太郎にさかのぼり検証する。
 現代詩の新しい表現の追及により、詩が難解になっていく傾向に対し、抒情の復権を願う声もここのところ聞く事が多くなった。いまのところわたしは詩のふたつの流れのどちらかを一方を否定する気にもなれない。両方に詩の方向性はあるし、どちらもよい詩はおもしろい。詩は多様性であり、個性である。難解か平易かで、詩の善し悪しを決めることもできない。けれども、荒木、三田の両氏の声にも耳を傾けたい。
 
「裳」一〇七号(発行・裳の会/編集・曽根ヨシ)。
個人的にこの誌は、シンプルかつ上品で好印象。白い表紙も手触り感がよい。
「破線」志村喜代子
「月ごよみにミシン目を入れ
引き剥がしやすくするたくらみは
彼(か)の岸への知恵か
凍てつく十月の破線よ
―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)―(ギギ)」
月暦(カレンダー)の破線にそって、過ぎ去った一日が切られて捨てられていく。風の日も雨の日も嵐の日も、ひとの破線という知恵によって。凍てついた十月。
「月ごよみのミシン目は剥がない
つるりと垂らしておけ
死者は 死んだ」
ラストは絶妙だと思う。
 
「COAL SACK六五号(編集/発行・鈴木比佐雄)
「まんまるに まんまるに」下村和子。
二百数十ページの厚みのある詩誌。詩と評論・エッセイ等、ぎっしりと文字がつまっていて、読み応えがある。
扉の作品は、「まんまるに まんまるに」。
「八十歳を越して/やっと微笑仏に達したという/木喰上人の きびしい一生を思う」そうしながら「遊びへんろ」と称し、遍路をしていく晩年の話者。生きる苦しさ、遍路をする厳しさも笑ってユーモアにかえつつも、「まるく まるく/輝いている」のは、老いを背負い、仏に近づいていこうとする、にんげんの姿。
 
「操車場」三一号(発行/編集・田川紀久雄)。
「末期癌日記・十一月」田川紀久雄。
 末期癌の詩人の日記。残念ながらわたしの入手した誌には落丁のページがあり、何ページ分かは不明なのだが、詩や詩人について、社会・世界・時代について、病気について書いていくさまは、闘っている詩人あるいは男の姿がある。
JR西日本の脱線事故に触れ「「他人の意見に耳を傾けない、そして独裁的な運営を行なう。」これはどこの組織でもありえる。」とし、次のように展開する。
「……小さな詩人の世界でもありえる。詩人は社会的に報われないから、権威にしがみつく傾向がある。詩人の世界はだれもがまた批判するひとがいないからそのことが罷り通る世界になっている。……」
朗読に関連してこのような一節もある。
「いま詩の朗読が盛んに行われている。それにも関わらず詩人達の心と身体に対する問いかけがほとんどなされていない。つまり詩人の生き方が問われていないということだ。……どう自分は生きていくのかという問いかけをつねに持っていないとなにもならないということだ。……」
心にとめておきたい言葉である。
日記でも、詩でも、物を書くということは、ときに目に見えないものと闘うということでもあり、後につづくものに何かを残すということでもる。それは厳しく、そして尊い。けっしてきれいごとではなく。
 
「しけんきゅう」一五三号(発行 しけんきゅう社)はすべて横書きの作品から作られていて、これは何かなと、印象に残った。
「世界の詩人たちの森から(上)」笹本正樹は、夕暮れの森から詩人たちの声が聞こえてくる。ホメロス、シェークスピア、ゲーテ、ヘルダーリン、ワーズワーズ、ダビデ、ディキンスン、ボードレール。童謡か童話風で、どう展開するのか続編も読みたい。世界の詩人たちの名前を出すにあたって、もうすこし突っ込んだ書き込みもほしい。

 


エッセイ・評論

詩は現実のみを扱うものでもない

詩と思想2010年5月号


 詩は、想像力である、といえば、当たり前すぎるかもしれない。あるいは言うことが古典的だろうか。今回おもしろいと思った詩を集めて、眺めてみると、「イマジネーション」という言葉が浮かんできた。幻想性もまた心地よい。リアルな地上の生きる様も、もちろんよいのだけれど。幻想性のなかにリアルさ、あるいはリアルさのなかに幻想性があると、それはおもしろいかもしれない。  では、今号の詩誌評を書いていきたい。
 順不同、敬称略で。
 
「続 左岸」三三号(発行・左岸の会)
 月を思わせる金の輪の装丁デザインは、品が良い。
「舟」新井啓子。
「舟の中に積まれているのは 海を渡る鳥の風切り羽 飛び疲れた鳥は 舳先にとまり羽を繕う くちばしで整えられ すり抜けて 船首から船尾へ 重なり合って 羽は舟に落ちる」
 6連構成で、1連4行ほど。暗い夜に進む舟、列車の走る町、舟に積まれる海鳥の羽、鳥の身震い、黄金の草原……、幻想性のある作品世界は、凍えるかに肌寒く、そして静けさは、美しい。
「夜に飛び立つ鳥のあとを 舟は静かに進んでいく 大きく羽ばたく羽を追い 付き添うように進んでいく 羽に紛れて虫が光る 暗い夜を進む舟は 光の覆いを破っている」
 舟は静かにわたしたちのこころの闇のなかを進んでいくかのようでもある。
 
「石」新井啓子。
「月が出ると 赤い石は震えて光った 砂の中にうずくまり 石は遠い電車の音を聞いた 川下に長い鉄橋がある 線路に落ちた電車の響きが 橋桁を伝わって 川の中まで下りてくる」
 描写で事物を積み重ね、ひとつの世界を作っていく、その様は、良質な叙情性を感じる。
 夜は昼間と違い異世界のような気がしてくる。「月が出ると 赤い石は震えて光った」は幻想性もあり、エロティシズムもある。そしてひんやりとした夜の情景のさびしさ、闇の重みなども感じる。
「水が湖から押される夕暮れどき 砂の中に赤い石はなかった 流れて砕けたと誰かが言うが ぼうと流れる川の底にはいまも 小さな石が眠っている」
 ラストの連も、作品世界を締めくくるのに効果がある。 
 
「ひょうたん」四〇号(発行・ひょうたん倶楽部 相沢育男方)
「灰色の天空」岡島弘子。
「灰色の天空が落ちている
通学路の脇
両手でそっとはずす
まるい空」
 冒頭部を引用したのだが、空はからっぽで、つかむことができないはずだが、ここでは、マンホールの蓋のように、あるいは丸い鏡のように、両手でとることができる。十代のころのうす氷の風景、その不可思議さ。それは「水の時間がとまったままのうす氷」であるわけだが。
 やがて成長し、山を自転車で登り下り、それは人生の齢でもあり、人生を下っていくときでも、
「灰色の天空のうす氷は
 まだひびわれることなく
 私の両手の中にある」。
 子どものころの、新鮮な驚き、それは記憶のなかの永遠性のようでもある。
 
「旅立ち」から「犬」水嶋きょうこ。
「死んだ犬が遊びに来た。たのしそうに笑って舌を出している。いつもの格子模様の座布団に座っている。」
 あり得ない事柄が、ごく普通の様をしてそこにあるという、懐かしいような、せつないような。霊なのか、夢なのか、幻なのか。
 わずか5行程の短い散文詩だが、
「その体に触ろうとするのだが、かすかな白い空気が漂うばかりで。掌は空を切り、さわれない」
 に生と死の狭間を感じてしまった。それは温かいものなのだろうか、それとも冷たいものなのだろうか。
 
 話はそれてしまうが、わたしの家に二十年以上飼っていた猫がいた。もう死んでしまったが、こたつに足をいれるときに、反射的に足先を確認してしまう。猫を蹴らないように。もういなくなって数年たつが、ときおり、気づくことがある。猫はいないけれども、いるのだな、と。おそらく、我が家の狭い庭先にも、その猫がくる前の夏の日に死んだ飼い犬が舌をだしながらときおり寝そべっているのだろう。
つまりは、わたしたちは知らずにしらず、死者たちに囲まれて生活をしているようだ。もしかしたら、死者たちに生かされているのかもしれない。
 それは「懐かしい日だまりのような匂いがする」という作品内の詩句にもあるように、温かい気がする。
 
「モーアシビ」二〇号(編集発行・白鳥信也)
 この誌は毎号巻頭に北爪満喜の写真が掲載されている。今回は、白い雲が走る蒼い空にある、小さな月。
「月の瞳」北爪満喜。
「眠りの足りない瞼で
 月があればいいなと街角の空を見あげた」
 そう始まるこの詩作品は、品の良さを感じさせ、「真昼の月」の情景と情感を、読み手に呼び覚ましてくれる。わたしもまた、昼間や夜に、月を探して空を見上げたり、月に誘われて空を仰いだりしている。なにげない日常にある、かけがいのない一瞬に、月は輝いているのだろう。
「今日の月はあまりに淡く
 青空に消え入りそうだから
 そこにいる という証しに
 白く浮かぶ月のまわりへ
 てんてんと丸くミシン目のように
 切り取り線を入れておく」
 想像すれば、空は工作用紙のようでもあり、月という作品のために、切り取り線をひくさまは、想像するに楽しい。
 疲れたときに、その「真昼の月をのぼらせる」ために。
 
「たわんだ空(世界が滅んだ日に)」白鳥信也。
「世界がついさっき17時47分に滅びていたとしても
 カレーをつくっている誰かと猫とこの俺は生きている」
 世界が終わっても、それは人間が死滅してもということかもしれないし、宇宙がブラックホールに呑み込まれるようにして消えてしまうことかもしれない。それでも、もしかしたら、白々とした終わった世界がそこにあり、ふだんと変わりのない生活を、果てもなくし続けているような気さえする。それは、死後(魂)の世界かもしれないし、そうでもないかもしれない。そのようなことを想像させてくれる詩だった。いつのまにか、わたしは作品を離れて、夢幻に遊ぶ癖がついてしまった。
 作品中「カレーの匂い」がしだいに薄まり、それでもなお、「生存者」がいくらかいる、世界が滅んだ日だった。
「むきだしの地面に黄色いチョウセンアサガオの花がうなだれている
 いつ見てもこれは垂れているけれど今日は特別そうだ
 世界が滅びる日にはこの花が一番似つかわしい」
 人間がいなくなった世界は美しいかもしれない、けれども、世界が滅んでも、作品中に生存者はいたようだ。
「歩行器を押す老女がくる。足はたわんだO脚でちょっとずつ進んでくる」
 それが終わりのない日常であるかどうかは別として、案外人間はしぶとくもあるのだなと、いささか笑みさえも浮かべてしまう。そのような作品だった。
「だからといって何も起きていない
 何も起きていないことこそ何か起きたことの明確な証左なのだ」と。それが何なのか、いろいろ想像してみるとおもしろい。
 
「etude」一一号(編集・麻生直子/発行・NHK学園新宿オープンスクール)
「三瓶山でヤマタノオロチ」麻生直子。
 
「ヤマタノオロチは
 神社の裏の杉林の奥に棲んでいる
 おまえが悪さをしようものなら
 すぐさまヤマタノオロチにさらわれて
 呑み込まれてしまうのだよ」
 そう「おおばあさん」は子どもらに語る。詩は物語るものであってよく、田舎の旧き良き次代を思い返してしまう(という幻想を抱いてしまう)。
 そういえば、幼いわたしも祖母から昔話を聞かされたことがある、ということは、記憶にはないけれど。きっとそれは現代の核家族では、TV番組の「昔話」が代わってくれたのだろう。わたしは幼いころから、鍵っ子だった。身近に誰もいなかった。
 詩の後半は活劇のような、活躍の場面があって楽しい。
「叢雲のヤマタノオロチの正体は凛々しくも
 マチオコシの神楽舞いを真摯に熱演する子どもたち
 無尽蔵のエネルギーをひめて
 国産みの新神話の太鼓も笛も鉦も響きわたる」
 祭りの舞の熱気がこちらまで伝わってくる。
 
「潮流詩派」二二〇号
「夕映」皆川秀紀。
 誌のなかの「皆川秀紀小詩集」から。
「Mother Come Falling
神聖なる母よ 僕は死ぬのだろうか
強さが必ずしも優(やさ)しさとは限らない 
他者を愛そうとする意志 それは何か?」
しんと静まりかえった地上の空白のなか。
光のような思いが降り注ぐような、あるいは祈りのような思いが言葉となって立ち上がってくるような、そんなシンプルだけれども、惹かれる詩行があった。
 
「る」二号(弓田弓子個人誌)
「消しゴム」弓田弓子。
「空き箱に集められた
 消しゴムの中に
 オカッパ頭の少女がいる
 気がむくと
 髪をばらばらにして
 あかい唇から
 ははははと
 声を出している」
 その少女が何であるのかはわからない。消しゴムなのかもしれないし、消しゴムの妖精なのかもしれないし、消しゴムたちのなかにまぎれこんだただの小さな少女なのかもしれない。
 年々顔は汚れ、ひとと会うと「はははは」と笑う。壊れかけているのか、それともほんとうにもう笑うしかないのか。それはわたしたち一人ひとりの姿でもあるかのようでもある。無残で滑稽な自分。
「少女は
 顔を消そうと老いた身を
 けずる
 消すほかに
 なにであったのか
 消すほかに」
 そう、消すほかに、なにも(術や姿が)ないのかもしれない。
 
「新現代詩」九号(新現代詩の会)
「失敗しない笑い方」はんな。
「わたしの先にあるのは
こんなはずじゃなかった
が禁句だった未来」
おそらく自分の人生が望みと違ったものになってしまったのだろう。ため息をつくかのような、失望やどうしようもなさ、「おまけにわたし自身はかなりの方向音痴であり」(人生の方向音痴か)にその気持ちが伝わってくる。
「ひぃふぅみぃよぉ
いろはにほへとちりぬるを
あぶらかたぶら
チチンプイ!
唱えた呪文が山と積まれる」
などユーモアもある。
 ただ、たとえば次のような「遊園地のメリーゴーランドより面白く」など、幼さを感じる比喩は、本来避けたほうがよいのだが。
 この作品をあげたのは、 
「失敗しない笑い方って
あるのだろうか」
 に立ち止まってしまったからだった。実はわたしはそのようなことを考えたことがなかった。笑いに失敗や成功はあるのだろうか。うまく笑えた、とするのであればそれは作為的なものであったか。たとえば作り笑い、たとえば慰めるための言葉とともに添えた笑み、たとえば……。
 いろいろ自分を振り返ってみたがわたしの答えは同じだった。
「失敗しない笑い方ってあるのだろうか」
 とはいえ、せっかくなので、いちおう答えを求められてはいないだろうが、答えておこうか。
 自然と浮かび上がった、温かい気持ちの笑みには、失敗はすくないかもしれません、と。
わたしは自分の笑った顔が嫌いだったけどね。
 
 今回はこれでおしまい。毎回脱線話をしているかもしれないが、想像力(誤読を恐れずに)で詩を読み遊ぶことは、愉しい。これだから詩はやめられない。今回もいい詩をいくつも読んだ。さて、今夜はこれから詩でも書こうか(笑い)。
 
 ちなみに「これから(帰って)詩でも書こうか」はある詩人の言葉らしいが、わたしの職場でも十数年前に冗談で言われていた。
 またたとえば、仕事や人間関係などに疲れたときには、とっとと眠るか、詩を書くとよいものが書けそう気がする。
 
 
 
 
作者注意書き
「etude」一一号の始めの「e」の上にはアクセント記号をつきます。
 
 

 


詩誌評

評とは客観的に、主観を語るものかもしれない

詩と思想2010年6月号

 
 
 詩誌評を始めたい。今回の詩誌評のタイトルは、評は自分なりの感じ方をひとにも説明できるようにしてみる、という意味合い。それは純粋に百パーセントの客観も主観もないということかもしれない。ある程度のせめぎあいの上に成立している。また評により、評者は自分自身の物の見方や考え方や感じ方や捉え方などを示してしまう。
 
「二兎」一号(編集発行・水野るり子)。
「穴」坂多瑩子。
「大根の葉っぱが
穴だらけになって
 穴の上には
 おんぶバッタが
 わんさといて
 穴によくまあ落ちないでと
 感心して
 穴をのぞいていると」
 そこには長い廊下と教室があって、石の階段を下りると、子どもたちが通りすぎて……、という展開の詩。
 平明な語り口で、物語をつむいでいく、それは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」からインスパイア(霊感)されたものだろう。オマージュ(賛辞・尊敬)もあるのだろう。この誌の表紙には「芝居小屋のアリス」という副題のようなものがついている。今回の特集か、あるいはこの誌自体が、「アリス」あるいは「兎の穴」がテーマなのか、いずれにせよ、空想の世界に楽しめる誌になっている。
 また「不思議な国のアリス」の作者のルイス・キャロル(数学者・童話作家)の人物像の一端は、坂多のエッセイ「キャロルの写真と手紙」でうかがえる。
わたしもこのエッセイで触れられているルイス・キャロルの書簡集『少女への手紙』は二十代のころに手にしたことがある。つまりは少女へのたくさんの手紙と、少女の写真が掲載されていた、と記憶している。キャロルは、興味の対象に偏愛があるかもしれない。そういったものも、文学なり芸術なりを生み出すこともあるのだろう。
 この誌の数名の同人も同様のテーマの作品を書き、またカラーの兎のポストカード付きとあり、とてもおもしろいものに仕上がっている。
 
「スーハ!」六号(発行・よこしおんクラブ 発行人・野木京子)。
 野木京子「焼け河原Ⅱ」。
 
「流れが止まり 光は腐り始めた
 捩れた濁音の滴は 境界を落ちた
 
 わたしは鈍いのです そして変形した奇妙な生を生き延びた
 
 くりこ、くりこ……
 (そんな名前の子はいないよ)」
 
 十数行の短い詩の、冒頭部分を引用した。大きな作品舞台の、小さな一場のようにも思える。作者の詩集『ヒムル、割れた野原』を読んで、その背景を知れば、この「焼け河原」がどこにあたるのかは推し量ることもできる。まるで生きているものも、死んでいったものも、同じ時空に重なり、死者の声や息遣いさえ聞こえるかのようで。
「死んだ人たちの靴が 行き場を失って歩行を続けていた
 火がつく少し前のこと」
 というラストの2行は読み手の胸に、死んだひとの手指がかかってくるような衝撃さえある。
 ほかの書き手(陶原葵「球・戯」、八潮れん「変幻する諸対象」など)もよい作品を書いていて注目に値する。
特集は「私の街角」。新井豊美、稲川方人ほか十数名のエッセイも楽しめる。
 
「裳」一〇八号(編集・曽根ヨシ/発行・裳の会)。
「メモ」曽根ヨシ。
 現代詩というと難解であることを前提にしているものもあるが、とうぜんながらそうでないものもある。いわば平易なものは、たとえば共感とか深みとかそういったものが求められるかもしれない。
「お母さんは 夕べ遅かったので
 眠ります
 紅茶をいれて
 ホテルパンをトーストして
 目玉焼きを焼いて
 冷蔵庫のレタスを食べて
 出掛けて下さい」
 朝、食卓に置かれたメモ。娘と息子と父親が順に起きだし、寝ている母を置いて、それぞれ職場や学校に向かっていく。
「眠って 眠って
午後の陽射しのなかで眠が覚める
食卓の上にメモはなく
誰も帰ってくるはずのない
夕暮には間がある」
 家庭の一情景であるが、そこには母親と家族の、互いを思いやる空気感があって、読んでいて、気持ちが澄んでいくようだ。
(言語の実験的な作品ばかりが詩ではないという良い例にもなると思う。もちろん詩の表現の革新のために、実験性のある作品もまた必要であるのだが)
 
「水盤」六号(編集・平野宏/発行所・「水盤」編集室)。
「漂流」森永かず子。
「胸のおくの不整脈
あれは
かすかな羽ばたき
もうずいぶん昔から
わたしのなかにも
一匹の鳥がいて
うずくまっている」
「一匹」(一羽ではないのは、動物性や物体性や身体性を強調したいのか)ここでは、「不安」とも「命」ともとれる。小鳥は手のなかにいると、かすかに震えていることもある。不整脈の音を小鳥の羽ばたきに喩えたものともとれる。
「もう老いたからか/まるで石」と時の推移とともに、「鳥」はすこしずつ変わっていったのかもしれない。
「わたしの胸の/小さな鳥よ」は、胸の奥で震えている。
思えばわたしたちはみな、自分のなかに小さな命を持っていて、それは常に鼓動しているのだろう。
ほかに平野宏「「現代詩の前線」という場所」のエッセイも興味深い。
  
「イリヤ」六号(発行人・尾崎まこと)。
「竜の落とし子」菊田守。
「生まれてからこのかた
なぜこのような姿にうまれたのか
考えている」
 
という誌の巻頭の三行詩(空行は詰めさせてもらった)だが、なんともユーモアとペーソス、そして哲学的とも素朴ともとれる根源的な問いである。
この誌は、上品な趣きのある装丁だった。 
 
「鹿」一一八号(編集人・埋田昇二/発行所・詩誌「鹿」の会)。
「太陽系第四惑星の寂寥」埋田昇二。
「寒い
大気は薄い
火星探査機から降り立ったおれは※
身を屈めて
どこまでも続く赤褐色の岩石平原の
斜行層理の地層のなかに
小さな赤い球形の丸い粒状の岩石を見つけた」
「※」印は作者注となっている。有人火星探査構想というものが、アメリカにあったらしい。実現はしなかったようだが、それを受けての作品に思われる。火星の大気は薄く、気温差は地球より大きいと思われ、宇宙服を身に着けての探査となるであろう。あまりの気温の低さは、宇宙服を着ていても、寒さと感じるらしい(作品の設定)。
 SF的な近未来の作品ともとれる。岩石の層から地表に水があった証拠をみつけ、嬉々とする話者。いわば荘厳かもしれない風景を見るうちに、話者の宇宙飛行士は、
「神も悪魔もいない大地とは/いかに 寂しいものか」と、岩だらけの地表で、感慨を持ち、そして「そのまま直立し/果てた」。
 火星の荒涼の地に立ち尽くす一人の宇宙飛行士は、「果てた」とあるので枯れ木のように朽ちていったのだろうか。一人の人間の孤独と、岩だらけでほかになにもない異星の大地。空想の中に、実存性も楽しめる作品に仕上がっている。
 
「エウメニデスⅡ」三六号(編集発行・小島きみ子)。
「交わらない円環の白と黒を」松尾真由美。
「前触れは
 あったのだった
 健やかさとはほど遠い
 窓のものうい時空のきわ
 ざわざわと張りつくものの生体を
 見さだめもせず背きもせず
 なぜか要路のように受け入れ
 景観を狭めている」
 詩は何かはっきりとした意味や内容を、読者に伝えるものでは必ずしもない。それでも言葉を追っていくうちに、意味とイメージが沸いてくる。それがまた詩の愉しさでもある。試しに読解の工程を示す。
 この詩はおよそ誌の6ページ分をつかい、上にイメージ(白黒のネガのような絵)を、下に詩を載せている。
 はじめに絵について触れたい。冒頭部分にあたる1ページ目は、森か林の絵だった。もっとも木々の枝があり、その後ろの幹は規則正しく直立すぎるので、あるいは背後にあるのは建物とその窓なのかもしれない。前面には枝があり、葉がある。背後は林なのか、蔦に覆われた建物なのか、道なのかよくわからない。2ページ目になると、タンポポの穂のような、炸裂する光のうずまきのようなものがある。3ページ目はおそらく花だ。4ページ目は白い皿に植物と房・実。5ページ目はしおれた花。6ページ目は公共施設のような建物の内部。1ページ目の絵は、この建物の外側のようにも思える。木々と大きな窓が符号する。
 これらの絵は、それぞれの詩の部分とイメージが重なる。つまりはタイトルの「交わらない円環の白と黒を」に行き着く。
 白黒の絵:1ページ目・緑と窓の風景→2ページ目・光の渦→3ページ目・花のアップ→4ページ目・白い器にもられた実→5ページ目・しおれた花・6ページ目・窓と床と、窓の外の植物の風景。
 そして各ページは、詩の始まりと結びが、言葉やイメージにおいて連関しており、読者はその幻惑の森と建物と花のなかで、迷いつつ、遊ぶという仕組みのようにとれる。
 詩作品の部分:1ページ目・始まり「前触れは」→結び「喜劇役者は出口をもとめる」/2ページ目・始まり「出口をもとめ」→結び「種子でありたい」/3ページ目・始まり「種子はいずれ」→結びの語は直接的には関連ないが、花について語られている(背後に別のものが語られているかもしれないが)/4ページ目は白い器に枝と実について、5ページ目はしおれた花について語り、結びは「木霊をとおく/火に返す」、6ページ目で「木霊を放し」で始まり、「ささやかな葉の波間で/足許から溺れていく」と結ぶ。
木々に囲まれた建物のなかにはいると、部屋に、しおれた花や皿に盛られた実があり……、という室内を巡る様にも見える。清潔な空気、翳りのある風景、深みのある趣がある作品世界で、読みの愉しみへと誘う、迷宮のような作品と評したい。
 
「室町パッケージ」野村喜和夫
 これは第1連に
「(fold out)
よろこべ
午后も
脳だ
さよなら固有名
水葬のように」
など短めの詩句が並んでいる。
 
 次の連からは(fold in 1)(fold in 2)……と、1連にあった言葉をスラッシュでつないで組み替えていくという操作をする。
「(fold in 1)
よろこべ/午后も/脳だ/さよなら固有名/人には馴れまじものぢや/……(以下略)」
「(fold in 2)
よろこべ/午后も/脳だ/さよなら固有名/水葬のように/……(以下略)」
 
このことで、読みの際、繰り返しの詩句によりリズムやテンポが生まれる。いわば言語の実験的な試みということになるかと思う。各連すこしずつ言葉を入れ替えていく。(fold in 16)で終わり。遊びのようなものとも受け取れる。いうまでもなく詩は言葉・言語の遊びの部分も重要である。
両氏のように「現代詩手帖」で書く詩人たちの何割かは、実験的な方法で、新しい作風なり、展開なりを模索することを行い続けている。それをして現代詩の前線ということになるのだろう。ただ読者や作品により、その受け取り方や反応は様々になる。
 
「PO(発行人・水口洋治 編集人・佐古祐二 編集〈POの会〉)
三田洋の「現代の抒情を衝く朔太郎の「感情論」」や津坂治男の「自律する抒情詩」や佐藤勝太「抒情の変革とは 小野十三郎「短歌的抒情の否定」から」などは興味深かった。短く言うと、三田たちは抒情詩を見直そう、二十一世紀の抒情詩の可能性を探ろうとしているようだ。
 
「酒乱」四号。(あんど出版)
中堅・若手による誌。今回の特集は「言葉のかたち」。連詩を試み、シンポジウムと称して、みなで語りあっている。
また郡宏暢のエッセイ「「テキスト」に耐えられない私たち―World Wide Webと「文学」」。いわゆるネット詩、ネット文学に関する考察。一部分の要約を試みると、文壇とネット文学、詩壇とネット詩の闘争は激しくなっていく。そしてネットによって「公共性の構造転換」が今後どのような方向に進むのかわからないが、「このことへの態度表明」が皆に求められるだろう、と結ぶ。
 

 


詩誌評

「詩の読み方」に「正しさ」というものはあるか

詩と思想2010年7号


 実を言うと、これが正しいという「詩の読み方」というものがあるのかどうか、わたしは知らない。詩は必ずしも意味を伝達することを目的とはしてないので、説明はしない。説明している詩は、むしろよろしくないと見られる。従い、自分と違う詩の考え方、物を捉え方、表現の違った書き方を読むと、これは何が言いたいのかわからない、何が書いてあるのかわからないということもありえる。そして、困ったことに、作者自身、何が言いたいのかわからないということもありえる。そう作者が語ったとしても、その言葉をそのまま受け取っていいのかどうかもあやしいものだが、場合によってはそのままでしかないこともある。読み手は、作品を手探り状態で、読み進めていくことを求められるのも、また詩である。ここが散文と違うところで、詩が理解されにくい部分であるかもしれない。もっとも書き方がよろしくないということもあり得るので、さらに始末が悪いこともある。詩を理解する、受け取る、感じる、楽しむ、というのは、それぞれ独特な技量があるのかもしれない。読み手は、読み手の読解力(あるいは読み書き能力・リテラシー)でしか、作品を評することができないかもいしれない。では、順不同、敬称略で。 
 
「折々の」一九号(発行「折々の」の会 松尾静明)
「屋上」咲まりあ。
「ここに立とうとすると
とたんに脚が萎えてしまう
見たかった世界が見えるかもしれないのに
肺に吸い込む酸素の軽さが心地よいのに
震えが上ってくるコンクリートの地面から」
屋上から「見えなかったものを見ようとして」立ち尽くす。
わたしたちは、まだ大人ではなかった頃、見たい光景がたくさんあったかもしれない。見たかった世界があったかもしれない。歳を取って、だんだん大人になっていくに従い、常識に縛られ、ひとの目に許される範囲で落ち着いていく。それを破ると、仲間はずれにされたり、仕事をほされたり、非難されたり、生きていけなくなったりする恐れがあるから。
けれども、わたしたちはそれでも「見たい」という欲求がある。それは新しい世界や自己を発見したいがためのような。
「萎えた脚の生白い太さよ
 どんなところを歩いていたのか今日まで
 どんなふうに昇ってきたのかここまで
 空っぽになるほどのそれほどの息をついやしたのか」
 話者は現在の、現実の自分を内省する。「なにを見たかったのか」と。
 そしてラストの連は、となりのビルのカラスを描写して締めくくっている。それは、この詩に客体化あるいは客観視という、視点による立体的な効果を生み出している。
 
「朝食」竹内章訓
「数人の子供達が
 銀製のスプーンで
 皿のポタージュスープをすすっている
 静かな教会の食堂に
 スプーンと皿がかち合う音が響いている
 窓から差し込む光が
 その響きを照らしている」
 という1連でわかるようの、教会での静かな朝食の一風景から始まる。清潔な空気感はとても好ましい。そのスプーンと皿がかち合う音は、「少年が昼下がりに/親友といっしょに/校舎裏につくった秘密基地の小さな入り口に/入ろうとして/頭と頭をぶつけてしまったような」「幸福な痛み」であると喩える。そしてまた、
「目の前の幼い少女でさえ
 手に余るスプーンをにぎりしめて
 自らの小さな痛みを
 響かせている」
 という連にわたしはとてもこころ魅かれてしまった。まさにこの場面の、響きあう小さな音だけを題材にした秀作である。
 
「ガーネット」六〇号(編集発行・高階杞一)
「段鳩」廿楽順治。
「でこぼこになって鳴ってみたがもうお 
そい 
のどのあるひとは 
ないひとを 
たいせつにしてください」 
下ぞろえで、上記のような詩句が並んでいく。平易な言葉だが、読みをするのには、一筋縄でもいかないかもしれない。読みの可能性(解釈の一つとしての試み)をもってそれに当たる。たとえば、こう読んでみる。「段鳩」というものはよくわからないので、まず「鳩」と解する。「鳩」は「ひと」の隠喩かもしれない。「のど」は発声器官。全文を引用し、詳細な読解を試みると、ほかの詩が紹介・評することができないので省くが、中ほどで「のどがないひとはかわいそう/鳩であることをなぜかわすれてしまっていた」とある。「ひと」と「鳩」は同義か、近接であることがわかる。
「            おーい と 
まだ生きていることをしらせるほかない 
鳩 
でしかないおれを 
あきらめてのど仏のように植えてくれ 
この世にゃもう 
そんなにおおきな声などいらないし」
「大きな声」は「強い主張」と置き換えると意味がわかりやすい。思想・信条・主義・主張を声高に発する時代は、日本では過去のものとなりつつあり、そのような人物はいまでは少数派となってしまう。むしろそのことによって、その少数派(「のどのあるひと」)は多数の無口で従順に見えるひとたち(「ないひと」)を従えることができそうでもある。そのことに感謝してもよいだろう(「のどのあるひとは/ないひとを/たいせつにしてください」)、とも詩の内容を解釈することもできる。諧謔、韜晦のある書き手かもしれないとも思う。
 ほかに廿楽の「鳥のよしだ」も興味をもった作品だった。「論考「現代詩この20年の意義」」として、野村喜和夫、阿部嘉昭らのエッセイも一読の価値がある。
 
「ヒーメロス」一三号(発行・天使舎 小林稔)
「脾肉之嘆」小林稔
「遠い日の木霊であった貧者の私は、恐竜の背骨が崩落する音を聴いたように思う。昔日私は一頭のライオンを引きつれ砂漠を旅した。」
 三章構成あるいは三部構成の散文詩。荒野にライオンを引き連れ旅をする男の話になっている。旅に出て、祖国の父を失うも、帰らず、砂漠にて一頭のライオンに出会うエピソードが描かれている。
旅にでた理由を「祖父に背き母に背き姉に背き父に叛いたのは一途に真の生を追い求めてのことであった。」と語る。
「私に撒かれた種子たちが場(コラール)を与えし花ひらくために、記さねばならぬ。記さねばならぬ、衰退の傾斜を私の腑が転がり終えるまでに。」
 これは自らに律した使命感に思える。男とライオンの物語であり、同時に物書きである作者の志でもある。
 他に「自己への配慮と詩人像(五)」では、小林はギリシア哲学を論じ、構造主義やポストモダンを超える思想が求められている、とし、「これまでの西欧理性ではなく、古代ギリシア人の考えたロゴスのほんとうの意味を私は考察していきたいと思う。」と結ぶ。
 
「ろれっしえんど」七九号(編集発行 高橋絹代)
「飛ぶ夢を見なくなって」わしすえいこ
「飛ぶ夢をみなくなったのはいつ頃からだろう」で始まる作品。子どものころは、空を飛ぶ夢をみていたのかもしれない。大人になると、常識を身につけることによって、重石をつけてしまい、夢で空すら飛べなくなる(ひともいる)のかもしれない。
 作品中詩のほとんどは空を飛ぶ場面であり、夢の臨場感があって、共感する。初めと終わりの詩句だけが、飛べないことについて書かれていて、せつなくもあり、さびしくもある。空虚感さえある。
「今はもう飛ぶ夢は見ない」と。
 
「アフンルパル通信」九号(編集発行・書肆吉成 吉成秀夫)
 細長い誌。表紙はベッドに横たわり、カメラ目線の男性のヌード。
「連載詩・私たち、密生する。 第四回」文月悠光。
「 私たち、密生する。
 
 息を繋ぐ。
 膝の谷間に顔をうずめ、
 〝わたし〟の吐いた息を
 口の中で溶かしだす。
 私たち、密生する。
 閉じたまぶたの裏側から
 私を見透かす〝わたし〟の目。」
 冒頭の詩句を紹介した。若さとエロス性・、危うげな自意識と不思議な力強さ・生命力、他者との関係性と会話、雪と海と満潮の気配などの情景を、行わけ体と散文体を織り交ぜながら描いている。作品の中に、ある密度と新鮮さを感じる。これからの活躍がもっとも期待されている新鋭のひとりであろうと思う。まだ十代で各賞受賞し、少々周囲が賑わい・騒ぎすぎて、当人も大変だとは思うが。
 
「すてむ」四六号(発行・すてむの会 甲田四郎方)
「暮れの匂い」甲田四郎
「女房も友だちもいないのか
 残されて揺れる背中の匂いは昔
 たいてい私たちのしていたものだ
 すいません、ホームレス初心者なもんで
 寒気に開け放たれた入口で
 笑ってみせて出ていった」
 これは、「私」と「女房」の私小説的(実際そうであるかはともかくとして)な話にも思える作品。壁のペンキを塗り直す時期、年の暮れ、昔の貧乏な友人を思い返しながら、ふと屋上内側の踊り場の床に眠っている男を「私」と「女房」は見つけた。ホームレスだった男は、引用部分のように「すいません」といって出て行った。「女房」はそのあと、広場に向かう「私」に言う。「どこ行くの?」と。しかしながら、それはホームレスの男にも響く声のようでもある。
「ポストだよと振り向かないまま私は言った」
 いまの時代を反映した、そして家と女房を持った男「わたし」と、それらを失った「ホームレス初心者」の悲哀と、無常観。
 いまや、だれもが、職場があろうが、持ち家があろうが、伴侶がいようが、ホームレスになる可能性がある時代である。
 だから、だれもホームレスをさげずむことなどできはしないし、自分の行く確かな先などは、ほんとうはわからない。
 
「橄欖」八七号(編集発行・日原正彦)
「人生の途中でりんご飴を売っている」大西美千代
「愛のために死にたかったので 女は
人生の大半を無意味に嘆き続け
今たった一人で」
で始まる詩。「りんご飴を売る」と「売れない詩を売る」と並列して描いている。
「愛のために死にたかった
 のではなく
 愛のために生きたかったのにと
 いまさら言うわけにもいかず」
 そして、
「りんご飴を/あるいは/売れない詩を/粛々と売る」。それは、働く者の姿でもあり、詩人の姿でもある。
 
「詩区」一二八号(連絡先・池澤秀和)
「降りていった」田中眞由美。
 電車のシートに二人の女性が乗り込んできた。ひとりは着膨れて、汚れたピンクの袋をたくさんもってバックを肩にかけて。周りには空間があいている。あとから乗り込んできた女性は、シルクのブラウス、カシミアのスーツ、真珠のネックレスという(ややステレオタイプだが)上品な装い。
「いつの間にか眠っていたピンクのひとが
 はっと 眼をさまして
 隣のひとを 見た
 同じ年ぐらいのそのひとを じつと見ていた
 隣のひとは 真直ぐ前を見ていたが
 ふたりの距離は果てしなく開いていて」
 向かいに座っていた話者の「わたし」は、ふたりの様子を見ている。そしてピンクの袋を持ったひとは次の駅で降りていった、という作品。
 対照的な人物が隣り合うも、生き方や姿勢や視線は交わらず、それを第三者の話者が語るという構図になっている。
 そして人生とはそういう仕組みかもしれないなとも思った。電車内の、人生の、すれ違いの一瞬を捉えた作品であった。
 
「熱気球」九号(発行・詩の会こおりやま  安部一美)
「雪だるま」若杉縷縷。
「雪だるま今にも歩き出しそうな帽子マフラー手袋つけて」
 という一行詩。情景が浮かび、ユーモアもある。楽しい詩である。
 
「短詩通信」はがき篇三一号(朱鳥草)
「使者が」朱鳥草(あかみとり・そう)。
「雪野になぎ倒された
   セリ ナズナ ゴギョウ
 近づいてみると
 ぴくぴく全身を震わせているのは 兎
   ガラス玉の紅い目 にじんでいる血
         (グレン・グールドに)」
 この詩も情景がよく描かれている。雪とおそらくは兎の毛の白さと、兎の目の紅さと血の赤さの対照が鮮やか。この誌は、葉書に書かれた詩の通信となっている。
 
「港のひと」(発行・港のひと 里舘勇治)
エッセイと書評の誌。詩はないが、興味深く読める誌になっている。また五〇万円ほどの詩集制作を活版印刷で承るとの告知もあった。誌の名前「港のひと」は、詩の出版社の名称でもある。
 
*光冨註:
「ヒーメロス」一三号(発行・天使舎 小林稔)の「脾肉之嘆」小林稔。詩句の引用部で「場(コラール)」は、カッコ内はルビになります。

 


詩誌評

にぎわう詩誌に触れてみる。

詩と思想2010年8号

 
 今回は取り上げたい詩誌が多いので、前置きは省きたい。順不同、敬称略で。
 
岩本勇個人詩紙「おい、おい」七六号
「なんぼ」岩本勇。
「人の世に/生まれて おまえは/なんぼ と/数に直され/私は数ではありませんよ と/抗議しても/あほぬかせ/おまえは/なんぼのもんや と」
 葉書一枚に印字された十六行の詩のうち、前半の九行引用してみた。関西弁なのだろう、話し言葉で、理不尽な世間の見方に、単刀直入に切り返すような作品。
ラストでは「あほにされて/それでも私は/なんぼのふりして/生きております」と、哀切さとタフな一面も覗かせている。
 
「Junction 74(発行・草野信子方)
「ソラシド」柴田三吉。
「土の上 レンゲの花に/ちいさな身が腰かけている/空の上では 死が諸手を広げ/まばゆく瞬いている」
花と死を題材に、タイトルにあるようにドレミの音階を絡めて詩の世界を作る。
「(ドの上にはミが ソラの上にはシがあり/どれも勝手に動くことを許されない)」
 詩情と言葉遊びの展開にラストの連で、
「土に座って夜空を見上げる/はるかな高みで 詩が瞬いている/ひとり階梯を登ると/わたしを包む闇は無調だ」と、そこにはカオスと静寂のみがある。
 
「hotel 第2章」二四号(発行・hotelの会)
「《あついみず》」海埜今日子
「ほのおをかけたであいだった、きょひをてがけたしじまでした。それはとてももえのこり、くものきれつをまきこむから?      ほおづえはがし、ひといきいれ、ふわふわのじょうしょうのためにもの、くるう。あいのてひとつ、まにまにつつんで。」
海埜の、少なくてもわたしが目にすることがあった作品の傾向としては、ひらがなの多用、生命・エロスの官能性ということである。この作品もそのようで、作者名を隠しても、作風から、このひとと言い当てることができる。いわば、海埜ワールドを形成している。「出生」「死生」「未生」という言葉だけ漢字をあて、あとはすべてひらがなを使った散文詩となっている。叙情性も受け取ることができた。
 
「眩暈原論(2)」野村喜和夫。
「Ⅰ―3
かたちは動きであり、動きはかたちである。すなわち速度。すべては捕獲を逃れ去ると知れ。
 
最初のゆらぎはめざめのとき。宇宙めく夜のこめかみの境界を散り散りにして、胎児めく生気の何かしらクレッシェンド。その影が董色になって、木の葉になって、霞になって、血の川の流れの絶え間ないノイズにもなって。だがやがて、眩暈地平にあっては、すべては絹、音楽も絹、乳房も絹、死ぬまでも絹。おいおい、誰の妙なる睡りを乗せて、あわあわと霊柩車は行くか。」
冒頭の二連を引用した。タイトルに「眩暈原論(2)」とあるので、(1)もあるのかもしれない。連作の可能性もあるが、この作品のみで見ていく。連作の場合は、互いに関連、連結、補完しあうものであるが。
タイトルからして「眩暈(めまい)」について語るのであろうことは推測できる。「最初のゆらめぎはめざめのとき。」と二連と三連の始めに書かれている。おそらくは眩暈が突如訪れたときから、その幻惑さ加減を詩に表したものであるとも受け取れる。わたしも眩暈で数度、失神しかけたことがあるが、脳がぐらんぐらんと揺れ、体の姿勢を保つことができず、闇に星々が渦巻くような、あるいはすべてが白い光に包まれるような、その交錯さ加減があった。
そしてこの作品において「ノイズ」としていくつもの言葉や映像や思いが猥雑に浮かんでは、疾走していく。そしてそれを「原論」と名づけ、「読み解かれることのないシステム」として提示されるとも読める。
テクストを読むということは、読み手が、作者の思惑を越えて、独自に作品世界を作り変えてしまう(解釈を試みる)所作である、ので、そのように捉えた。
 
「交野が原」六八号(編集/発行・金堀則夫)
「イド(id)」一色真理。
「エスの町では地面に穴を掘ると、必ず水が湧き出す。けれど、誰もそこに井戸を掘ろうとする者はいない。出てくるのは赤い水ばかりだからだ。それに、一度できた傷口から流れ出す血は、けっして止まることがない。」
 散文詩の一連目を引用した。「イド」とタイトルにあるので、すぐに精神分析の世界を題材にしているとわかる。また作品の後に著者の注があるので、明らか。内容的にも、言葉が掛かっているのかもしれないが、「井戸」(象徴性が高い)や家庭や父と母などが出てくる。
作品をひとつの物語として読むと、暗い情念もある血縁関係の、どろどろとした部分をこめた、不可思議な自分語りとなっている。家族・血族の愛憎劇とも、自分の深層心理との対決ともとれる。そしてラストは、オイディプス・コンプレックス的な、告白となる。宿命すら感じ取れるかもしれない。
「その男こそ母の血を吸って生きのびた。ぼくだ。父は僕が殺した。」と。
 
「潮流詩派」二二一号(編集発行人・村田正夫・麻生直子)
「風祀り」麻生直子。
 
 夜、岬ちかくのホテルに泊まった話者、浴槽に身を沈めていると、
「わたしの目の前を
からだを洗い終えた母が
〈先に行くね〉
 と
かるく手をふって
脱衣室の自動ドアに霞んでいった」
 その母も亡くなり、思い返すのは、
「あの丘の上に
 遺骨を埋葬したのちは
 清らかな風霊をひだり肩にのせ
 血の果てまでも行けると思った
 〈夢のようだねぇ〉
 旅先ではいつも嬉しそうにまわりを眺め
 感嘆の声をあげる母だった」
ひとは亡くなっても、大切に思う残されたひとの記憶のなかで、いつまでも息づいている、そのことを再認識させられる作品であった。
ほかに皆川秀紀の「風」は、沈鬱さから前向きになった明るさと祈りが、熊谷直樹小詩集には、率直な思いとユーモアさが、印象に残った。
 
「プリズム」七号(発行・プリズムの会 代田勉)
石川厚志「しり突つき」。
「どうそうかいに 行ったんだ
どうそうせいが 逝ったんだ
からだの病気で 逝ったんだ
むかしから 弱かったんだ
だからみんなに 突つかれたんだ
せんせい方にも 突つかれたんだ」
冒頭部分から、一文の後半に繰り返しの効果を狙い、ときおり文字を掛け合いながら、韻を踏みながら、最後までリズムよく畳み掛けていく。学校でのいじめ、養鶏場での鶏の突つかれ。活字にするとくどくなる可能性もある、繰り返しの作業だが、この場合は、文字を入れ替えたりして、効果はあると思う。ラストはこう結ぶ。
「校ていに悲めいが 突き抜けて逝ったんだ
お空の突きも はんぶんに欠けてたんだ
おしりの辺りに 寒気がしてきたんだ
気が突くと 僕のおしりも亡くなってたんだ」
ユーモアと悲哀の詩であった。
ほかに天野英「たわむ鏡」での、ルイス・キャロルのアリス考察などもあった。
 
「宇宙詩人」一二号(発行・宇宙詩人社 鈴木孝)
「入り江の眠り」(キム・ソンウ(金宣佑))。
「生理痛の夜には
じりじりと部屋の床に肌をくっ付けていたい
ベッドから下りて近くにもっと、
サザエのにおいのする枕に鼻を埋めていたい
 
青いサケのように……」
生理の夜に、海や魚介類のイメージや感覚を重ね、
「釈迦もレーニンもゴッホの芋を食べる夫人たちも
体の痛い日にはこうして革命もしばらく
鎌も筆もしばらくおいて、一日中部屋の床と遊んだだろう
生娘一人が熱くなり波としっかり肌を交わしても
見苦しくないようにしたい」
と結ぶあたりはおもしろい。七〇年代から八〇年代に日本でも流行った女性詩をすこし思い返しながら読んでいた。
韓国現代詩の特集なのであろうか、ペ・ハンボンら数名の詩人たちの作品と紹介が写真付きで掲載。ハン・ソンレ(韓成禮)訳。この誌では、日本の詩人たちの肖像写真や集合写真も多数掲載されている。
 
「ガニメデ」四八号(発行・銅林社)
三〇〇ページ以上の分厚い誌で、目を引いたのは、片野晃司の詩壇時評「「ネット詩」の終焉はいつだったか」、久保寺亨「白状/断片」、中井ひさ子「小豆 他一篇」、海埜今日子「《寝待月、ひとりの箱が船乗りによって》」などだが、今回は小笠原の作品をあげてみようかと思う。
「私は犬の写真を見ながら書いている」小笠原鳥類。
「テーブルの上はタヌキの上だろうか、マジック(奇術)に隠れている布
なので、白鳥は鳩に隠れていて、湖の後ろなんだな。テレビを見ていました。
テレビを見ている人は低いテーブルに座っているのだし、いくつかの
ピアノは並んでいる歯で、サメが、やって来ていた。サメが出て来る」
 タイトル通り、これは作者の執筆中の実況中継のようなものなのかもしれない。作者の「私」は犬の写真や、テーブルの上の物やテレビなどを見て、目に映るもの、心に浮かぶものを原稿用紙かパソコンのワープロソフトにでも「転写」していく。そして作者に興味がとてもある海や魚類の事物へと移っていくが、ノイズ性とイメージの連環が続いていく。書くという行為と、心に浮かぶ記憶やイメージ、目に映るもの、周囲にあるものなどを記載していくという手法であるかもしれない、と踏む。
 また編集後記の武田の痛快な発言は、思わず笑ってしまうこともある。
 後記に記された事柄で、わたしも運営委員である「44プロジェクト」に関して。
「「44プロジェクト」は同人詩誌及び詩のサイトの活性化と、同人詩誌及び流通手段がない詩書の委託販売を目的とした企画です。」(サイトのトップページより抜粋)
そのプロジェクトの主宰者に、何やら書いているようだが、その表現はいかがなものか、と苦笑。
 
「COAL SACK」六六号(発行・鈴木比佐雄)
「左手と右手」木村淳子。
「右手はうぬぼれていた
 
 ぶきっちょな左手、
あんたは何もできないんだ。
 はさみも使えないし、
鉛筆もだめだし、
私がいなければ何もできない。」
 素直でわかりやすい作風。大切なことを書いている。これをして「ひとは自分ひとりだけでは生きられないんだよ」と言ってしまえば、それでお仕舞いかもしれないが、そのことを作品としてきちんと、上手く(こういう風に感想を言われるのを嫌うひともいるが)描くこともまた、詩にとっては善いことに思う。いたわりの気持ちもある。詩をふだん読まないひとにも、受け取ってもらえる作品だと思う。
 
「火の鳥」二三号(発行・火の鳥社)
「『戦中戦後 詩的時代の証言』から始まるフリートーキング」長谷川龍生、三浦雅士、平林敏彦。
平林の『戦中戦後 詩的時代の証言』(思潮社)という自伝的評論を契機に、「荒地」という戦後詩の代表的な詩誌、その時代の田村隆一らの詩人・作家のエピソードの回想などを、三氏で行ったもの。横浜詩人会主催イベントの一つとして企画され、実はわたし自身記録係り、及び記録CD編集(横浜詩人会発行)に携わっていたという鼎談でもあった。その模様が掲載されている。
 
「詩遊」二号(発行・詩遊会出版)
特集はポエトリーリーディングについて。森川雅美、窪ワタル、稀月真皓らによる論考や、インタビューやリーデング・イベント記事など。色々な立場から朗読に関して、発言がある。実はわたしも珍しく数分程度、このオープンマイクに参加していた。作品は三角みづ紀、今唯ケンタロウら数名。
 
「ココア共和国」二号(発行・株式会社あきは書館)
「捨て猫」響まみ。
 招待作品の響まみの「捨て猫」。
「ずぶぬれで震えてる
捨てられた仔猫みたいな
アタシを」
で始まるポエム系(という印象)の作品。「仔猫みたいなアタシ」は男に拾われて、幸せ太りをしていくのだろう、そして「亭主」は帰ってこなくなり、「アタシはいったい誰なの…」と、中年の主婦のようにつぶやき、家庭のなかで「捨て猫」のようで、「アンタの帰りを/待ってる」
細長い形の誌で、カラーイラストあり、楽しめる作り。秋亜の朗読の模様がDVDとして付録になっている。リズム良く時に声を荒げ朗読し、伴奏あり、男女の舞踏あり、聴かせる、観させる内容になる。 
 
 
 
 
 

 


詩誌評

詩の滅びと復活。

詩と思想2010年9号

 
「明治になったとき、詩歌のジャンルには漢詩・和歌(短歌)・俳句・狂歌・川柳(*せんりゅう)があったが、いずれも新しい時代の精神を十分に表現しきれなかった。とくに漢詩は、西洋の知識の導入の盛んな中で衰え、江戸末期に衰えかかっていた狂歌は、高い教養を要するわりには低い評価しかされなかったために滅びた。」というのは文英堂の『日本文学史』からの抜粋。将来どこかの「文学史」において「現代詩は滅びた」という項目が加わらなければよいが。詩の再生・復活を願うし、企図していく必要もある。では順不同、敬称略で。
 
「現代詩手帖」六月号(思潮社)
「食卓で洟(*はな)を嚔(*ひ)りながら書いた詩」岡井隆。
「詩が滅んだことを知らない人が多い。」(雁)
四季派の森をさまよひ やうやく「荒地」開墾の鍬の光を遠望しつつ「櫂」が多摩川を渡るのをうらやんでゐたころ
かういふ情報は「わけがわかんない」
と思はれ おびえと共に自分の若さを信じさせた」
 詩誌の冒頭掲載の三〇〇行ほどの作品から、一部抜粋した。著名な歌人でもあり、現代詩において詩集が賞をとり、話題になっている作者である。いわゆる一般のひとが連想する「詩」ではないところが、「現代詩」である。個人的には好きな詩風ではないが、一つの実例としてとりあげた。改行体で、エッセイの一断片を思わせるものが、漢数字の章ごとに並べられ、詩歌や文学について実在する個人名や引用の発言・詩句・文章などを織り交ぜて構成されている。
 座談会「滅びからはじめること 岡井隆とゼロ年代の詩歌」では、松浦寿輝、小澤實、穂村弘、岡井隆のメンバーで行われ、このあたりの文学事情も読みとれる。
 
「kader0d」四号(編集人・本橋理英子/発行人・広田修)
「他人」広田修
「私の中には時折他人が入ってくる。私が食器を洗っていたとき、気がついたら私は田淵さんだった。田淵さんは私の部屋に勝手に入ってしまったことを申し訳なく思い、靴をはいて部屋の外に出たが、そのとき田淵さんは私だった。私は再び部屋に入り食器洗いを続けた。」
 冒頭部分を引用した。解釈するに、他人が自分のなかに入ってくるということは、心霊学でいうところの憑依現象なのか、心理学でいう多重人格のことか、SFなどの人格の入れ替わり(例えば筒井康隆原作「転校生」など)や他人への変身なのか、ということもあるが。
 自分の中には他人(他者)がいるのかもしれない。その自分でも思いもよらない他人があるとき呼び起こされ、行動を起こす。不条理な出来事・非日常に、意識が混乱しそうではあるが、また日常に戻っていく。
「すると殺人者は徐々に田淵さんに変わっていき、(中略)そのとき田淵さんは私だった。私はナイフを戸棚の中にしまい、ひとまずタバコを一服ふかした」
 これをして空想や妄想といってしまうと、とたんにつまらなくなってしまう。読み手としては、純粋に、円環(始めと終りがつながる)になる異常な出来事を、詩世界の現実として楽しむことができる。
批評など散文も充実していて(こちらの印象が強い)広田のほかに、小林坩堝、田代深子ら若い世代により、新鮮な誌となっている。若手による詩と批評の誌として貴重だと思う。広田の批評「さよならパリ――高塚謙太郎とボードレール」では、二者の散文詩について比較検討している。
表紙も前号の白くシンプルなものも、今号のカラーのものもデザイン性に、また本文のレイアウトのセンスも、優れている。
 
「PO」一三七号(編集人・佐古祐二/発行人・水口洋治)
「韓国現代詩の今」とし、崔東鎬(*チェドンホ)ら四人の詩をプロフィール付きで紹介している。
「唇の文字」「太陽の標的」韓世情(*ハンセジョン)・詩/韓成禮(*ハンソンレ)・訳
「唇のしわに
別れた名前を記録する時間
 
乱れた髪の乞食となり
私たちは髪の毛が引いて行く風の文字を解読したのだ」(「唇の文字」冒頭部)
ここではエロス性とある系譜が美しく描かれている。
「たった一つの標的のために
鳥のクチバシはその身に向かって育つ」
「私は予告されていない終りを見るため
目の見えない人の瞳を記憶する」
「私にはまだ消されていない
太陽の跡が残っている
 
私の目は今、黒点である」
など、「太陽の標的」ではインパクトのある詩句が屹立している。
この誌は、多くの詩作品が置かれ、百数十頁で、しっかりとした製本になっている。「詩誌寸感」などコーナーもよいかと思う。 
 
「ぶらんこのり」九号(編集発行・中井ひさ子、坂多瑩子)
「立ち話」坂多瑩子。
「献体を申し込んできたと
八十七歳になる一人暮らしの隣人が言った
死んだらすぐ行かなくちゃならないから」
で始まる詩で、死後すぐに密葬ですませるそうだ。平明で十一行の短い詩だが、なかなかにやりと笑わせてくれる。
「たしかに/献体は/新鮮さがいい/そうしなさい/ある朝 そうしゃべった」
 解剖台のうえの、美女は、ある種のあやしげなエロティシズムがありそうだが、老女(人)は、そちらはなさそうである。また臓器提供にもあまり適さないだろう。老体ながら解剖・研究の実験台として、すこしでも早く役立ちたいという、その隣人のある種生真面目さと、それを聞き苦笑いでも浮かべていそうな話者のやりとりには、ややブラックユーモアも感じる。
「またなの」中井ひさ子もユーモアがある。
「こんな日は
 考える人になって と
 公園のベンチに座っていたら」
 で始まる。昨日の会話で気になることがあり、なぜか目の前をラクダが通り過ぎていく。ラクダは、サラリーマンや子どもづれのヤンママ(ヤンキーママではなくヤングママの方)の比喩でもいいが、そのままラクダの方の解釈(実際には両方掛かっているのかもしれないが)がおもしろい。
「ぼくの/こぶの中にあるものなあに/帰ってきた/ラクダが聞いた」
 春の公園でベンチに座り母親が眠たげにしていたら、子どもが戻ってきたのだろう。おそらくプリント柄のTシャツに半ズボンの、子ラクダだ(評者の想像。本当は隠喩だろうけど)。
坂田、中井による薄手のページの二人誌は、毎回楽しめる。
 
「ひょうたん」四一号(発行所・ひょうたん倶楽部 相沢育夫方)
相沢育夫、相沢正一郎、岡島弘子、村野美優、森ミキエら良い書き手が多いが、ページ数は決して多くはない詩誌。
「キタイロンの捨て子」相沢正一郎
キタイロンとはギリシア中央にある山脈で、ギリシア神話では、酒と酩酊の神・デュオニューソスを祀り、オイディプスが捨てられたなど逸話が多い。それらを下敷きにしたのかもしれない、三行ほどの詩。
「庭にたっていた。庭のまんなかに井戸があって、あかさびた滑車から水滴がおちている。井戸の底をのぞきこむと、……月みたいに白い老人の顔が、水にぬれながら泣いている赤ん坊の顔になる。」
 という全行を引用。よく映画(その多くは小説を原作にしているのだろう)などで、見られる一光景ではある。しかしながら、井戸(象徴性が高い)=イド(本能的性欲動・深層心理/底に別の文脈を隠す)とも、若返りの井戸=泉/変身譚(「願望」あるいは「退行」あるいは「時系列の逆行」/あるいは「老い」「死」からの「再生」)ともとれる、多様な読み(深読み)を可能とする、不思議な、幻想性のある作品。
 蛇足になるかもしれないが、ほとんど全ての文章(物語なりストーリーなり一場面なり舞台なり何なり)、過去においてすでに古今東西において書かれてしまったものである。つまり、書かれたものすべては「引用」でしかなく「オリジナリティ」など存在しない。そこから、では、どうやって作品を書いていくのかが、問われる。それが詩だけではなく文学の課題でもある。「オリジナリティ」など存在しない地点から、どうやって「オリジナリティ」を獲得するか。
 
 たとえば、次のような批評的に詩を書くという試みもある。
「サヨン・Ⅲ」七号(発行・さよんの会)
「ピラニア」新井高子。
「詩は行ですか、面ですか
何次元だと思いますか、あなたは
どう答えます?
こう尋ねられたら、」
という、問いかけから始まる詩。この後「荒地」(日本の戦後詩の誌名でもあり、エリオットの作品名でもある)、「北園」(戦前のモダニストの北園克衛)など固有名を出して、いろいろな角度から詩を検証・考察していくが「ピラニアか、/アマゾンの/わたしたちは」という最終行で、話者や読者をも、自己批評していく。
 
「山形詩人」六九号(編集・高橋英司、発行・木村迪夫)
「電柱男」高橋英司
 筒井康隆の短編小説「佇むひと」で、犯罪者を「人柱」という木に生きながらさせる刑の話があった。ひとや犬が少しずつ柱に変えられていく。意識があり会話もでき食事もとれるのだが。小説家の主人公の妻もまた「人柱」にされている。女性だけに悪戯をされることもあり、夫を気遣うこともでき、という切ない作品を思い出す。
「電柱男が立っている
電柱ではない
男である」
 で始まる。「電柱男」は「男」であるので、どのようなひどい目にあっても力強く立っている。「文句は言わない/反抗はしない」と。しかしながら「男」は「漢」であり、
「世界との関係は持たない/しかし電柱男には/見下ろすように世界が見える」
 と達観してもいて、逞しさもある。あるいは「佇むひと」にインスパイア(感化・触発)され、それを下敷きにして独自に作り上げた作品のようにも思える。
 ちなみに、筒井作品の「人柱」はやがて人間としての意識を失い一本の木になる。
 
「紙子」一八号(編集人・萩原健次郎)
「娑婆」渡辺めぐみ
「犬が闘うのをじっと見ていた
六頭が五頭に
五頭が四頭に
四頭が二頭に
二頭が〇・五頭になったとき
メダルをかけてやるつもりだった」
 ここでポイントとなるのは「〇・五頭」というあり得ない数字である。この詩を成功させているのはここの部分。これは「遊び」であり「返還訴訟に勝つ」ためであり、「課さされた偉大な使命」でもあった。
「犬になれ/犬になる/犬を生きる/言い方がいろいろあったが/要は星を一つ一つ夜空から消すことだったのかもしれない」
 そして後半にはこのように語られる。
「そしてわたしは脱走した
 それは選択ではなく必然だった
 魂と肉がそのとき離れた
 奢れる者よ制裁が待っているぞ
 わたしたちが選んだ〇・三頭のヘッドが叫んだ
 わたしは目を閉じた
(幾分でもわたしを生きてみたいのです
まだ肉が残っているなら)」
リアルに生きるということは不条理を引き受ける・受け止めることなのかもしれない。「魂と肉」とが分離し、ついに一頭を割り、〇・五頭や〇・三頭になってもなお、わたしたちは「課された使命」やわずかな望みに生きるのである。生ききりたい。
 
「る」三号(弓田弓子個人誌)
「結婚線がぶれている」弓田弓子
「月の夜は
てのひらの別れ道まで
あかるみにする
ここをこう行って
ここで曲がって
しばらくゆっくりと歩いて行こう」
夜道を散歩していると「薬局の白い猫に出会うだろう」、「月の夜には/白兎が跳ねているが/この/てのひらには/白い猫がうずくまっている」と展開していく。夢想している・想像を巡らせている様がわかる。そしてタイトルにあるように「結婚線がぶれている」話になっていく。戦争で行方不明のYに触れ、ラストの行はこう記される。
「やがて/Y氏は/蛇になり/あなたのてのひらに/もぐり込むね/このてのひらは/ふくざつだ」と。平明な言葉でユーモアもあり、ユニークさもある。
 
「鹿」一一九号(編集人・埋田昇二)
「太陽系第五惑星 木星―ガリレオの独白―」埋田昇二。
 前回も惑星ものを取り上げたので簡単に。
「あのひとは/処刑される槍先が横腹に突き刺さる/あの瞬間には神の存在を疑ったが」で始まる。引用部では、キリストについて。その後、自らのことを話すガリレオ。地動説を語り、裁判にかけられ有罪とされたガリレオの魂は、死後四〇〇年経ち、惑星探査機「ガリレオ」に乗って、自らの説の正しさと見果てぬ真理とロマンを求め宇宙へと旅立つ。木星や四つの衛星を見て、感動し、衛星エウロパ探査へと希望を持つ。
 制限枚数が尽きたので、とりあげようと思った「裳」一〇九号は次回に回したい。
 
 
 

 


詩誌評

詩の多義性。

詩と思想2010年10号

 
 前に「実を言うと、これが正しいという「詩の読み方」というものがあるのかどうか、わたしは知らない。」と「詩と思想」七月号の詩誌評で書いたわけだが、別の言い方をすると、詩の多義性ということになる。詩の読み方も書き方も、自由でよく(自由であるからこそ、縛りや括りもでてくる。あえて自ら制限を加え、不自由を課すこともある。また自由といっても、悪意で読まれても困るが)、これだけが絶対的に正しい読み方、書き方であって、それ以外は認めない、というものはない。一つの詩に何通りの読み方や書き方があってもよいということ。わたし自身詩を書くときに、一つの作品や言葉に何通りもの意味やイメージなどを重ねることもある。多義性と、言ってよいかと思う。そういう意味では、わたしは詩というものをもっと広い範囲で捉える。 従いこの詩誌評では、現代詩手帖系の作品も(「現代詩手帖」から直接引用することもある)、ポエム系(ラブ・メッセージ)も載せている。なぜならば、現代詩もポエムも、それぞれ詩のなかの一形態、一ジャンル、一カテゴリーにしかわたしには見えないのだから。では順不同・敬称略で。
 
「五度高く」二号(軽谷佑子個人誌)
「ライクディス」軽谷佑子。
「とても遠くで
信号が青に変わる
かけだしていく
腫れて熱くなる
風にこのように吹く
 
人を殺して
帰る夕べ風が
圧せばいいビルの
まっすぐな線にすべっていく」
 前半の2連を引用した。一見、日常的な光景の出だしだが、2連目「人を殺して/帰る夕べ風が」で、一瞬驚きが起こるかもしれない。読み返すと、何気ない冒頭の「とても遠くで/信号が青に変わる」も、意味深長にさえ思えてくる。日常性のなかで、違和感や異化作用がこの「人を殺して」で生まれる。そして、この作者独特の改行位置である「人を殺して」と「帰る夕べ風が」というズラシとも思える技法に独特なものを感じる。詩は細部に生まれるとまでは言わないが、重要な要素ではある。
 暑い日、信号の道を駆ける、その時吹く風、「人を殺して/帰る夕べ風が」吹く。そして、周りが止まり「凪いでいる/すきまから抜けだす/耳が切れた」、とたたみかける。「風景が普段の/かたちをなくしなだれこむ/夜の部屋の開かぬ/窓辺わくだけが残る」の連は既成の日常が瓦解していくようでもある。最後に「ほら/風はこのように吹く」(Like this=このように)と結ぶ。一見平明な言葉を使いながらも、作品世界に底の知れないところもあるようだ。
 
「Poem ROSETTA VOL.7(編集人・角田寿星/出版人・蛾兆ボルカ)
「予知するワタクシ」蛾兆ボルカ。
「ワタシは予言する
 
 今度の休日
 私は江ノ島に行くだろう」
 で始まる詩の1連目。「ワタシは予言する」にしては、休日江ノ島に行くのは大した予言ではない。「空は深く/海は青いだろう/裸弁天様を拝むだろう/風は冷たく/岩は海の泡に洗われて/黒いだろう/昼ごはんにはシラス丼を食べるだろう」、そして「それが啓示だ」とするが、これは予定・予想・予告であろう。そして2連目には自分の娘に嫌われ、両親が他界し、退職する日がくるであろうと、予言する。これもまたよくあることである。ここまでは「予言」というより「予想」である。3連目になると、情緒的なことや健康状態について予言する。そして4連では「そして私は予言する//水曜日が炸裂する//木曜日が爆発する//金曜日が膨張する//土曜日が誘惑する//日曜日が産卵する//月曜日は来ない//火曜日が燃え上がる」とある。ダブルスラッシュは、改行位置で、一行空きということになる。
 まるでキリスト教の神が世界を一週間で創造したように。そして「そのあとで/一週間が/水曜日から始まる//それが啓示だ」と結ぶ。「創世記」をなぞり、自分なりに書き換えたようにも思える。ただ一つ、タイトル「予知するワタクシ」から来た「予言」かもしれないが、神の啓示であれば「予言」ではなく「預言」であるほうがよいかもしれない、とも思った。ごく何気ない日常的なことから始まる「予言」が、やがて神の創造を思わせる「予言/預言」へと拡がっていく様は面白い。
 
「永劫回帰 1994 夏」ダーザイン。
「1994年6月、僕は早めの夏季休暇を取り、道北の誰も居ない海触崖の上にテントを張って終日ぼんやりと海を見ていた。カモメが一羽、空にピンで留められている。」で始まる散文詩。ダーザインというペンネームはハイデガーの「現存在」から来ている。道北は作者の住居であるのだろう北海道の地。小説を思わせる描写から始まる。やがて次の連で、「廃園直前の遊園地にある観覧車の中で/佳子にフェラチオをしてもらったことがある。/ほとんど客のいない広大な園地に立つ係員たちは/何か不条理な罰を受けてでもいるかのように突っ立って/まばらに立つ人々の影が/やけに長かった。」
 この作品ではスラッシュは原文のママで、改行位置ではない。生々しい部分もある、この作品、あるいはダーザイン(武田聡人)の詩世界においては「永遠」というものが重要なキーワードになる。作者の既刊詩集のタイトルにも「えいえんはなかった」とあるが、この作品でも他の作品でも繰り返される「永遠」と狂気性・超越性・神性の女性あるいは電脳的・妄想的な聖少女のイメージ。
「女の身体は天の川の宝飾細工だ。白い肌に銀河が渦巻いている。彼女の瞳はオッズアイ。エメラルドとガーネット。瞳を覗き込むと「預言」が記されている。」
 その女性は話者の男に問う。
「「えいえんってあるとおもう?」」 
それはダーザインの道北の風景と廃虚のイメージ、科学的・宇宙論的記述と、荒んだ現実と甘美でもあり切なくもある夢想のイメージ、そして狂気と、すさまじいほどのリアルな膨張と崩壊の終焉は、悲しい結末となる。たとえばこのような部分。
「原子炉の炉心を妖しく照らすチェレンコフ光の青の中で、彼女はセーラー服を初めて着たころの少女の姿に変容している。私は彼女を抱いて、さくさくと夜花を踏みしめ、海辺の草原をゆっくりと、果ての果てに在るだろう、放射性廃棄物最終処理場へと向かった。」
 ラストはあえて引用しないが、女性の顛末と、キーワード(の答え)が記されている。その結末は、美しいほどに無残だ。作者は、存在論的テーマを追い続けている。
 この誌の特集は「預言」。詩人の一部は本来、預言者であり、神話の作り手・担い手・語り手であったと思う。
 
「うたがわ草紙Ⅱ」(発行者・廿楽順治)
 これが詩誌になるのか、詩画集になるのかは、わたしには判断つきにくい。版画は、宇田川新聞、詩は廿楽順治となっている。
 B5判ほどの白い用紙に、カラーの版画と、廿楽の詩が掲載されている。糸や糊やホチキスなどでは綴られていなくて、数十枚の紙を、透明な袋に収めている形式。
 その中から、セクシャルな作品を。
「水のおんな」廿楽順治。
「おんなは水につけておくのがいちばんだ
東京の水道だって
味はずいぶんよくなった
死んだおとうさんは蛇口にくちをつけたまま
じゃぶじゃぶと
出てきたおんなごとのんでいた
こんなはずじゃなかった
おんなだっておなじことをおもっていただろう」
前半部分を引用した。「おんな」と「水」は近接的であり、象徴性として通底している。エロティシズムがあり、また荒唐無稽な部分でもある。「死んだおとうさん」が話し、水道の蛇口から水を出すように、「おんな」を出し飲んでいるのだから。後悔も伺える。版画も品の良いエロスがある。
 ほかに「分析太平記」では「だれかのでっかいおちんちんに苦しめられる夢をみた/まあこれも文学だとおもってがまんしなさい」という出だしの作品など、なかなか面白い。いろいろな作品が収められているので、好みを探すのも良いかと。
 
「日本未来派」二二一号(編集発行人・西岡光秋/発行所・日本未来派)
「置き忘れたリュック」細野豊。
「黄泉の国から来たので 車内は薄明るく湖からの潮の匂いを孕み
男の乗客は異国からの闖入者である俺だけで
黒い山高帽をかぶったアイマラ族の女たちが 影絵のように
みんな赤子をひとりずつ背負って座っている」
 これは夢幻の世界の、もうひとつの現実であるのかもしれないのだが、「黄泉の国」からきた「俺」(つまりは死者かもしれない)は、ボリビアのラパス市を訪れている。その地では、(男の記憶では)現実にはあるはずのない地下鉄に乗って。アイマラ族の女たちがいる光景で、旅行をしている「俺」。それはどうやら夢であったことがわかる。「居眠りしたかと思う間もなく 日本のわが家の布団の中で目が覚め/あのカフェテリアにリュックを置き忘れたことを気づく」。そしてラストでこう結ぶ。
「あの中にはパスポートや財布ばかりでなく
 ただ一度かぎりの大切な記憶も入っているのだ
 取りに引き返そうとするが どうしても夢のへ入口が見つからない」
 夢と現実、記憶と思考が、多元宇宙のように交差する。わたしたちは夢と現実の世界を、毎日旅しているのかもしれない。幸福であるかどうかは別にして。
 
「索通信」九号(発行・坂井信夫)
「タダイの末裔17」坂井信夫
「すでに死者となったKは、かつてこう記した――「たったひとりで世界を変えることができるか」と。そう自問したとき、世界はいつも変えられるべきものとして出現した。」
「男」は「T字架」(「男」つまりイエスの時代では、十字架ではなく、T字架であったという説)に吊るされた。「もうひとりKの脳裏には、詩人にして思想家のYが宿っていたにちがいない。同時代人の……」とあるのは、キリストとヨハネを連想させるが、英語表記では、「Jesus(ジーザス)」と「John the Baptist(洗礼者ヨハネ)」である。「男」はキリスト。では、KとYは?
「KもそしてYも、みずからを〈非信〉の者としていた。この二千年のあいだ、人びとは弧絶よりも群れをえらんできた。」
 そしてラストでは、
「いまでも、かつて住んでいた団地の二DKの壁には、まるで呪文のように、「たったひとりで世界を」という文字が、うっすらと泛びあがっている。」(誰の住居か?)
 怪談の一場面ではないだろうが、実は、誰というよりも、近・現代人(非信の者)の姿なのかもしれない。そしてタイトルにある「タダイ」とはユダの別名である。(イエスを裏切ったイスカリオテのユダとは別人)つまりは、こうなる。ここで語られた一連の連作は、タダイの末裔、つまりはわたしたち近代・現代の〈非信の者〉のそれぞれの姿であったのではないかという憶測である。残念ながら、連作の、最初から最後までを通してわたしは読んでいないので、確かなことはわからない。少なくても、17作はあるのかもしれない連作のうち、いままで読んだ3作程度で思うことである。いずれ、一冊の書物に収められたときに、その答えをわたし自身で見つけるだろう。読みの愉しさである。ジグゾーパズルか推理小説のようで、読み間違えたとしても、一興ではある。
 
「裳」一〇九号(発行人・曽根ヨシ/発行所・裳の会)
「刑場跡の春」佐藤惠子
「中仙道に架かる柳瀬橋から
東下流の突堤まで
この春の烏川堤防は
菜の花が埋めつくして」
 美しい春の、のどかな一光景から始まるのは、序章としてこの後の「刑場跡」について語れる対比として効果的である。
「江戸時代 幕府滅亡までの七十五年間
柳瀬橋より西の 切り立つ崖上に
岩鼻陣屋の牢獄あり
橋から五十米ほど東の河原の処刑場では
斬首 獄門の刑も行われ さらし首は
爺婆たちの言い伝えによれば
「昔の木橋のたもとにいつまでも
いつまでも置いてあったんだとさ」」
刑に服し、死ぬのは一瞬ではある。そして恨みつらみは死後百年、千年尽きぬことはないかもしれない。なぜならば、ひとの魂はそうやすやすとは、消えていかないと、わたしは思うからである。
それでも「「南無妙法蓮華経」の塔」を建て、やがて大水で刑場の跡も流される。
「幾百年経ようとも 時として天は
 刑場に消えた有罪の冤罪の咎人たちの
 慰霊 鎮魂のために使者を遣わし
 この春 遣いの天女はここ岩鼻刑場跡の
 土手一帯に菜の花の衣を
 いい匂いの蜜色の衣を
 ふうわりと掛け天空へと去って行ったと」
 有罪であろうと、冤罪であろうと、死と共に全ての罪は許されるのであれば、迷う霊もない。瞑目したい気持ちにもなる。咲き乱れる花が救い。この世は生き難く、そして死んでゆく者も、残された者も、つらく、やりきれない。それでも残された世界に美しさがあるのは、天の恩恵かもしれない。筆力が確かな作者の作品とみた。
 
 

 

 


詩誌評

詩の維新

詩と思想2010年11号

 
 いまちょうど、NHK大河ドラマ「龍馬伝」が放映されている。それになぞらえて、すこし触れてみようかと思う。遊びだが。
 詩の時代における新たな夜明け、それは現代詩のピラミッド、あるいはヒエラルキー(階層)の崩壊あるいは再編である。この頂点に立つのは内外に評価のある一握りの詩人たち(芸術とはそういうものかもしれないが)。それは一つの雑誌に認められた存在(権威)。いくつかの階層や大小ピラミッドがあるが、おおよそ垂直方向の力学と同じ階層においては、水平方向のつながりがある。そして、どうしてその雑誌がそのような特権的位置を得られたのか、それは言語実験の試みであり、詩壇ジャーナリズムの形成によるものである。現代詩の人口推定1万人のうち○割が「現代詩手帖」、○割が「詩と思想」を形成と見られる。
 では、蒸気船や新式銃に当たるものはなにか、たとえば、いわゆる「ネット詩」などのインターネットの投稿サイト・掲示板や携帯サイト、iPodなどの電子書籍(外国産のだけに「黒船」か)かもしれない。
どれが幕府で、どれが長州藩で、どれが薩摩藩で、だれが新撰組で、だれが海援隊で、だれが奇兵隊かは、みなの想像力に任せるとして。
 わたしは詩の世界の再編成、再生を願う。ひとつの世界が変わる時、体制の硬化、それは底部と外部からの新しい波によってなされる。「ネット詩」により、だれでも作品を発表できるようになり、ピラミッド構造によらなくても済むようになる。電子書籍もこれから本格的に導入され、権威に認められていない作者が、次の主役のチャンスを得る可能性も出てくる。
 強引な展開かもしれないが、詩における「詩の夜明けは近いぜよ」という感じだろうか。それは否定や破壊ではなく、創造。既存の権威の頭上を超えること。では、順不同、敬称略で。
 
「そうかわせみ、」創刊号(編集・相沢正一郎/発行・そうかわせみ、の会 一色方)
「し」一色真理。
「私は黒い。私は文字だからだ。私はあの人が母を愛し、「ああ…」とうめいて母の上にもらした小さな、さびしい文字だからだ。
 
 あの人は母を捨てた。一枚の白い紙は風に吹かれ、人々の靴底に踏みつけられ、薄黒く汚れていった。けれど、私は母よりも、泥よりも、夜よりももっと黒かった。私は母の体から消えることのない、真っ黒な痣のようだった。」
 ここでの登場人物は「私」「あの人」「母」、それから後半に登場する葬式のあとの「母親」「少女」。「私」は「文字」であり「し」。一枚の紙に「し」と一つだけ書かれた文字である。「母」は紙。「あの人」は書き手。
「少女」によってようやく「私」は読まれ、わかってもらえた。「少女」が葬式で覚えたばかりの言葉でもあった。
「あの人は母の体にそう書き残して、この世界からそっと消えていったのだ。誰にも知られずに、たった一人で。」
「し」とは遺言のようでもあり、存在でもあり、生きた証でもあったのだろう。思うに、言葉も人の思い出も、あるいは詩も、それを残していったひとは、「し」によって消えていき、その痕跡をわずかに残すのみである。場合によっては、その痕跡さえも消えていく。見出されたものの幸運とも言えるかもしれない。それは一つの詩の姿でもあった。
 
「シーラカンス」四号(編集/発行・茨城詩壇研究会)
「瓦礫」戸浦幸。 
「瓦礫のなかをスズメたちが遊んでいる
爆風で吹き飛ばされたマリアの身体(からだ)
かろうじて残された頭部
小さな眼窩はスズメたちの
かっこうの隠れ場
 くすぐったいわ
 だれですか
 わたしの眼をふさいでいるのは」
 長崎の原爆投下で残された教会と町の残骸と記憶。ひとの世がある限り何度でも訪れるこの日。沈黙と祈りの日である。この詩において多くを語る必要性を、わたしは感じない。
「右半分のお顔が黒く焼け焦げ
眼は空洞に
なおいたましく微笑む
さんた・まりあ」
(補足として。戦争に関して私見を述べることは、ここでは語り切れないので省く。それは深刻、繊細、微妙で、単純な感想や感情やスローガンを記すことができない)
 
「緑」二四号(田中郁子個人誌)
「研ぐ」田中俊輔。
「お米を研ぐ
 冷たい井戸水で研ぐ
 右手の甲が冷たくなる
 白濁色が澄むまで研ぐ」
 日常の一風景のようにも、一見思えるが、こころを研ぐように、米を研いでいる。そしてそれは、生きるための行為でもある。
「今日も明日も
 おれは研がねば
 生きることさえ苦痛になる」
 偏執的であるというよりも、純粋に切磋琢磨していくさまに思えるその行為は、
「食卓にいつの日か
 新しい人が来るようにと
 おれはいつものように
 研ぐ」
 という希望でもあり、来訪者への迎えるための誠実な行為でもあるようだ。
 
「受胎告知」田中郁子の散文詩にも興味をもった。
「数ある「受胎告知」の絵の中で フィレンツェにある サン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコの壁画が好きだ」で始まる作品。絵を見ていると、「わたしはいつの間にか僧院の庭の中に立っている」。
 絵の世界に入り込み、「その時だけマリアと天使の肉声に聞き耳を立てている」と結ぶそれは、絵を媒介にしての、聖霊との交信・交流とも解釈できる。幸福なひと時。
 
「モーアシビ」二二号(編集発行人・白鳥信也)
「明るい足音」五十嵐倫子。
「―月がとっても青いから―(※)
 
そんな理由じゃあないんだ
 
遠回りして
家とは反対方向のコンビニで
ペットボトルのお茶を買って
またいつものベンチに腰かけて
月をさがしている」
 一見、ライトな感覚であるが、家の鍵を開けることに、躊躇もある。実は家庭・家族の微妙な葛藤やためらいのようなもの、子供のころの母に言われていた「もっと笑いなさい ぶすっとしていないで」に、「楽しくもないのに なんで無理に笑わなくちゃいけないの?」と思っていたが、自分も母が「私」を産んだ歳になってしまった。
「母はいつも 笑っていた
簡単じゃあなかったはずなのに
もしかしたら
帰りたくなる家は自分で作るのかもしれないね」
 そう悟る話者は、
「今夜も月が照らしてくれるから
 ローファーのつま先をトンと鳴らして立ち上がろう
せめて明るい足音で
かっぽ かっぽ 闊歩」
 と軽やかに歩いていく。夜道を、自分の人生を。三十代ぐらいの世代だろうか、女性の繊細さと前向きさを感じさせる、良い作品だと思った。
 
「詩遊」二七号(編集発行人・冨上芳秀)
「おっぱいの話(一)」井宮陽子
「ブラウスの上からこわごわ胸に触れた彼は「全部ほんもの?」と聞いた。うなずくしか仕方なかったけれどデリカシーに欠ける言葉かと思った。体重のわりに胸が大きかった私はみんなの視線がいつもそこにあるような気がして恥ずかしくて仕方がなかった。彼の素朴な質問は何よりも残酷だった」
 乳がんかもしれないが、女性にとっては命に関わる問題でもあり、切除手術は、デリケートな問題でもある。エッセイ的な散文詩であるか、あるいはエッセイなのかもしれないが、夫と妻の微妙なやりとりのすれ違いを描いている。
 
「空飛ぶゴースト」辻井啓文。
「病院に運ばれた。それは覚えている。尿が出ない。尿を出すために看護師が管を入れたはず。管を入れた記憶がない。痛いかもしれないと看護師が言った。あるはずの痛みがない。ベッドで寝ている。」
 尿を出す管を入れた話者の、看護師とのユーモラスなやりとりのなかで、窓の外にはゴーストがいたという展開。そしてラストでは、
「あきらめて導尿管をぬく。ゴーストの軽蔑するような笑い声がする。おれはオムツにお漏らしをする。」
 なんとも思い通りにならない患者の話であった。
 
 では、本篇では(このあと、番外編として、同人誌ではない詩誌3つに触れたい)、最後に、さわやかな誌と作品を。
「木立ち」一〇六号(編集発行者・川上明日夫/発行所・木立ちの会)
「AIRPORT」川口晴美。
「ホームの先端に
夜のあたたかい風が吹き抜けて
空港へ向かう列車が滑り込んでくる
言葉を交わしながら並んでいたひとたちのふわり黙った唇は花の色
薄い春のコートの裾が翻り
やわらかくみだれる髪を押さえるそれぞれの細い指先に
誘われて
ではなく
開いたドアをじぶんで選んで
どこかへ飛び立つあてはないわたしも
エアポートエクスプレスに乗車する」
 川口晴美といえば、現代の女性の、孤独感や漂白感を、散文体でドラマテッィクに、あるいは立体的に、イメージ強く描くことのできる作家だとわたしは思っている。一方、改行体の作品は、すうっと読めてしまう印象になる。洗練された大人の女性、その微細な視線や、もどかしい気持ちなどが感じられる。たとえば、
「窓の外を光る街はきっとあたりまえに走り去っていく
今日という一日のように流れてしまうその流れに」
 この誌はやや大きめは白い表紙に、「木立」「夏」など水色の大きめの文字に、水彩の絵筆で描いたような感じで、印刷されている。清涼感のある誌に仕上がっている。
 
 番外であるが同人誌ではない3つの誌に触れたい。書店の店頭か棚にも置かれているだろう。
「something 11(サムシングプレス/鈴木ユリイカ)
 鈴木ユリイカ責任編集の誌。表紙にこれは何処の国の子供だろうか、色の黒い、髪型からすると、女の子のようにも見える写真。イ・ビヨンホの撮ったもの。
 川口晴美、北川朱美、村野美優、長田典子、鈴木ユリイカ他多くの詩人たちが参加。詩人自らの作品を4頁分選んで載せているもの。見開きの写真もあり、グラフィカルな雑誌である。
 
「洪水」六号(編集発行人・池田康/発行・洪水企画)
 詩と音楽の雑誌。特集は佐々木幹郎と西村朗の対談。瀧口修造に関する座談会や論考。詩と音楽のコラボレーション集団「VOICE SPACE」座談会など。執筆は嶋岡晨、四元康祐、小笠原鳥類、海埜今日子、中島悦子、瀬崎祐ら多数。
 
「びーぐる」八号(発行人・松村信人/発行所・澪漂(みおつくし))
 関西で作られている誌。高階紀一、細見和之、山田兼士、四元康祐の共同編集。
 清水あすか、文月悠光の新作とメールインタビュー。一色真理らの論考、岸田将幸、最果タヒ、中尾太一ら若手へのアンケート、それから入沢康夫らの作品という構成。書評、詩誌評、投稿欄、短歌評、俳句評など、バランスをとった内容になっている。
 
 寺西氏の「詩学」が終り、「詩の雑誌midnight press」も紙版が発行されなくなり、「現代詩手帖」と「詩と思想」「詩人会議」など詩誌をめぐる環境は厳しくなっている。ほかにも「文芸思潮」や「詩とファンタジー」や「詩と批評 ユリイカ」ほかまだまだ書店で手に入る誌もあるのだが、現代詩といえば、「現代詩手帖」しかないような印象を受ける現状は、果たして詩の世界にとって良いことなのか悪いことなのか。  
 詩誌、それは同人誌であろうと、個人誌であろうと、自分が持てる、自分たちが持てるメディアである。
 自分たちが一から企画をし、同志を集め、詩やエッセイやそのほか記事を書き、デザインをし、あるいは作家に作品を頼み、あるいは雑誌コードや書籍コードをつけ、あるいは書店に置いてもらうよう店主に頼み、あるいはネットのショッピングカートに置き、そうやって、作ることのできる、場であり、方法である。
 ワープロ用紙をホチキスで留めた誌から、印刷所に持ち込み、流通コードを載せる誌まで、そして電子書籍まで、わたしたちのできることは、作品を書くだけでもない。
 詩人は詩を書くことだけに心血を注ぎ、それ以外は知らないでもよい。けれども、さすればだれかが誌や本にまとめないといけない。いわば他者のためにすこし骨を折る志さえあれば、詩誌を作ることもまた意義のあることだと、わたしは思う。
 詩の世界はメジャーな詩人たちだけのものでもない。マイナーな書き手も、それを支える多くのひとたちのものでもある。
 

 


詩誌評

〈現代詩〉を超えて。

詩と思想2010年12号

 
 わたしは詩に関することで、時折、思うことがある。たとえば、詩人とは〈人〉と書く。職業では必ずしもない。〈人〉であり、存在であり、生き方である、と。
 最近、小川英晴氏の評論集『POESY』を読んだ。また氏の言動を直接見る機会があり、わたしの冒頭の思いは、もしかしたらわたし一人のものではないのではないか、とそう思った。一部分を引用したい。
 「詩人として最も大切なことは、実は詩の出来不出来より、詩人としての生き方にあるのではないだろうか。自由にポエジーを育み、自らの想いどおりに人生を生きることは、意外に難しいことなのだ。」(小川英晴『POESY』(土曜美術社出版販売))
 
わたしは、こうも思う。現代詩は、実験のための実験に陥り、ポエジーという大切なものを忘れてしまったのではないかということ。
 詩は本来すべての芸術の根本にあると思う。そして、詩は諸外国においては愛され、詩人もまた同じく愛され、尊敬され続ける。
 そしてどうも現代の日本人が、詩と詩人に対して違う見方をしている。それは日本の詩を解さないひとたちが悪いのであろうか、それとも日本の現代詩人とそれを取り巻く詩壇ジャーナリズムが悪いのであろうか。わたしは詩を書かない人達から、現代詩や詩人の悪評や悪印象を直接聞くことが前々からあった。短歌も俳句も、そしてあらゆる芸術は愛されているのに、日本では詩は、近代詩とごく一部の現代詩までか。
 いまわたしはこう思う。〈現代詩〉から〈現代〉という冠を取り去り、ありのままの〈詩〉をもう一度見直すべきなのでなかろうか。それは、単純に過去の時代に戻るということではない。必要なのは形式・手法のみではない。形式は新しくあるべきだが。
 わたしが求めているのは技術的なことのみに終始しない本来的な〈詩〉の復権である。あるいは本物の詩である。内容としてのポエジーと形式としての詩法が高い水準で結合したとき、素晴らしい詩が生まれる。
 〈現代詩〉のうち、内容のない・乏しい・無意味・形だけの部分をわたしたちは超えるべきである。詩の本来的なあり方を見直すべきかもしれない。もう一度、詩を生き直そう。では、順不同・敬称略で。次回は最終回の総評になる。
 
「COAL SACK」六七号(編集発行人・鈴木比佐雄、佐相憲一/発行所・㈱コールサック社)
「DINK DIR」 Paul Celan
「Denk dir:
  der Moorsoldat von Nassada
  bringt sich Heimat bei, aufs
  unausloschlichste.
  wider
  allen Dorn in Draht.」
「想像してみよ
マサダの埃だらけの兵隊が
刺だらけの有刺鉄線に対抗して
ぜったいに消えぬよう
祖国を目に焼きつけているのを」
(「想像してみよ」パウル・ツェラン 尾内達也訳)
 パウル・ツェランは、ドイツ系ユダヤ人の詩人。ナチスの収容所で肉親や仲間たちを失った。その悲しみを根底に、書かれた詩である。いわゆる「アウシュビッツ以後」の詩である。セーヌ河に遺体が発見され、自殺とも言われる。
マサダとは、要塞遺跡のことであろうか。ユダヤ戦争で集団自決のあった地とされる。
 わずか四連二〇行のその短い詩には、痛切な抵抗と祈りがある。彼の詩には、気高さも感じられる。
 
「裳」一一〇号(発行・裳の会/発行人・曽根ヨシ、編集人・神保武子、志村喜代子)
「初夏の風が」鶴田初江。
「生まれたばかりの
アオスジアゲハが
ハルジオンの草はらで
ゆったりと蜜を吸っている
 
静かにふるわす翅に
一列に並んだ紋は
水色の鍵盤
初夏の風が
かろやかに
たたいていく」
 
「春」鶴田初江。
「黄蝶と一緒に
坂道を下る」 
 
 二つの短い詩の全文である。説明するまでもないだろうが、すこし触れたい。
「初夏の風が」は、生まれたてのアゲハチョウが花の蜜を吸っている様子、風に震わす翅の繊細な感じをよく描写している。
それからたった2行の「春」は、話者が「黄蝶と一緒に/坂道を下る」その様子が端的によく描かれている。坂を下降するが、連れ合いに蝶がいる。詩で、余分なことを言わないという理想形の作品。
 
「ERA」第二次五号(発行人・中村不二夫/編集人・川中子義勝)
「ときの象り」川中子義勝。
「ほら 錠(かぎ)が開いているよ
青銅の扉に身をよせて押し開く
暗闇にようやく目が慣れると」 
冒頭部分を引用した。タイトルの「とき」は当然ながら「時」のことを指し、「象り」は「かたどり」と読むのであろう。哲学的である。そして「青銅の扉」から詩・〈時〉の世界へと導いていく。
「旅の途上ふと立ち入った湖畔の礼拝堂(カペレ)で
あなたの口に溢れ舞う祝いの歌に
彩色ガラスの人影が昔の呼び声を取り戻し
 
風琴(オルガン)が幾千年の調べを想い起こすとき
裂かれた傷 埋(うず)められた嘆きもまた甦り
砕かれた骨の祈りをふたたび輝かせる」
 「1 廻(めぐ)る時を」の章(あるいは部)から後半部分を引用した。
 たとえば1章はこのように読める。〈時〉の神秘の扉「青銅の扉」を開ける。そして「暗闇」から、〈時〉への「旅」を始める。そこは「御堂」であり、「宇宙」の広がりでもある。「風琴」が「幾千年の調べ」を奏で、過去から現在、そして未来へと続く、「ときの象り」に臨み、わたしたちは、「天地」の新生を見つめる、と。
 そして次の「2 時の馳せ場を」では散文体となる。
「旅の途上の辺鄙な場所 いつも思いがけない頃合いだった 三十余年も止まぬ戦乱の惨禍のなかを彷徨い 喘ぎながら ひとり荷車を曳く娘 あああれはあなただと呼びとめると 声に怯えたか」
 2章(あるいは2部)になると、戦乱のなかで、出会った娘と話者の話になる。濃密な文体でつづられる、運命的な男女のめぐり合いをドラマチックに描いている。たとえば前世、あるいは過去における異国(西欧)での悲恋のような。2章(2部)が全体としての比喩である可能性もあるが。これは〈時〉の邂逅であるのかもしれない。
 
「左庭」一七号(編集/発行人・山口賀代子)
「発熱」山口賀代子。
「からだのしんからじわりじわりとわきだしてくる
 いたみ
ときどきあるのだ」
 体の中からいろいろなものがわきあがる、「いたみ」「かたこり」などが「ねつ」とともに。中盤からは、「せいさく のない/くにのほうしん/こどもてあて」など、時事的・社会性・政治性のある事柄に移っていく。「たきつけてはおとす ますこみのけんしき」や「かんたんにことばをひるがえすどこかのちじのことば」が「わからない」。「わからないものが つぎつぎと、ふきだしてくる」。
 そしてラストでは、「ぞうきん」のようにしぼりだし、「しぼりきったあと」について語る。
「このちいさなうすっぺらいもの//わたし なのか」と自らを省みつつ嘆く。タイトル以外は全編ひらがなによる作品。
 
「る」四号(弓田弓子個人誌)
「目付き」弓田弓子。
 
「わたくしはわたくしを
どこまで記憶している
のでしょうか鉛筆を動
かしておりましたら見
たこともない姿が現れ
ましたそれでも目付き
などよく似ております」
 
この誌は十行詩が十篇掲載されている。そのうち「目付き」七行全編を引用した。これはこう読める。話者は紙(ノートや画用紙あるいは画布)に、記憶を元に自画像を描いてみた。けれどもそこに現れた人物は自分とは似つかない者であり、それでも目つきだけは自分にそっくりであったという。そこには、ただ記憶のあいまいさや描くことの難しさだけではなく、〈自分〉という〈存在〉について、あるいは〈自分〉のなかにいる〈他者〉について描かれているようにも思える。深読みもできる。
 
「豹樹Ⅲ」一二号(編集発行人・松木俊治)
「桜の精霊」神屋信子。
「精霊が宿るという桜の木を、ずっと探しつづけてきた旅だったような気がする。小さな小さなハチ鳥たちが、何処からか花びらをくわえてやってきて、桜の木に花びらを捧げ、咲かせるそうな。すると桜の木なのか、人なのか、霧の中に忽然と、その姿を現わすそうな。その一瞬の光景に出会うために、私は生きてこれたと思う。」
 話者の「私」は、精霊が宿るという桜の木を探し続ける旅(生涯)を送っていた。その後の連では以下のような概略になる。樹齢千年の樹があるというので、バスに乗り、谷川の奥に向かう。「私」はバスのなかで眠ってしまうのだが、寒気のする気配で目を覚ますと、満員の乗客のうち一人が降りていった。振り返ると、妹のような気がする。やがて、彼女は白い棒状のものとなって倒れてしまう。バスはまた走る。長い時間が過ぎた。次のバス停に止まると、年の離れた弟らしき人物が降りていった。彼もまた白い棒状のものとなって、さかさまに谷底に落ちていった。今度は走るバスのなかで、蒼い灯がともる。話者の心のなかにも蒼い灯がともる。乗客は僧侶らしい3人と自分だけになっていた。薄闇のなかを走るバス。自分と共に旅してきた物たちがある。鞄を開き、絵道具一式を出し、薄闇のキャンパスに「魂」と大きく描く……。
 ラストの展開はこう描かれる。
「と、薄闇のなかを華やいで、飛び廻る小さな小さな妖精たちが、魂のかけらを拾い集め、ざわめき始める。すると朧気ながら、精霊の気配が抽象の形を、模索しはじめる。耳を澄ませる。群れ飛ぶ気配を、羽音を、宇宙の声を私は感じている。目を閉じて、瞼の中にその光景のシャッターを切る刻を、息をつめて待つ。」
 比喩的な物語性を帯びた作品である。「桜の精霊」を探し続けている「私」は、人生の模索の旅のなかで、あるいは冥界・異界に入り込んでも、永遠の神秘を追い求めつづけていた、ということにも思える。そういった男を描いた作品と読めた。
 
「KO.KO.DAYS」四号(長田典子個人詩誌)
 ゲストの吉田文憲「ここに降りそそぐものを待っていた」。
「近づくと遠ざかる
ここに動いている影とともに
呼びかけ
呼びかけることによって
一瞬そこにたち顕れる声――」
 小さな字で、1頁目に中央に配されている詩句を引用した。題詞であろうか。
 次の頁からは、普通の字の大きさで、
「だれがこの光を受け取るのだろう。探し、めざめ、失い、待ち、求め、なにものかに命ぜられて、記憶が突然これを最後に消え失せる瞬間を、在ることが突然これを最後に忘れ去られる瞬間を生きている。「夏はここ百合の花が咲くのよ」……細かな網目のむこうに一点の光が浮かんだ。その光のなかから声がした。」
 たとえば「ここ」とはどこか? それは現世・現人(うつせみ)のようにも思える。「降りそそぐもの」とは何か? それは冥界からの光や死者の声のようにも思える。「川面」の「川」とは何・何処か? それはこの世とあの世の境にあるもの・三途の川であるかもしれない。
 たとえばこう読める。現世から、異界・冥界の声や光が現れてくる、神妙で奥深い世界を、言語でもって作り出している・捉えている・描いていると。
  
長田典子「湖」。
「追いかけられる怖い夢で目醒めたとき
 わたしはいつも思い出すことにしている
 幼い頃のこと
 生まれた村が湖に死んでしまったことや家族がはらばらになってしまったこと
 あの頃写した写真の一枚一枚
 家族写真や学校の記念写真
 もうとっくに封印されて失われてしまったものたちのことを
 そして自分に言い聞かせる」
 百数十行の詩である。怖い夢から醒めると、女性の「わたし」は、子どもの頃のことや、暴力的・強圧的な男と出会いや出来事を振り返る。それはトラウマのようでもあり、逃げてしまいたいものであった。
「わたしは逃げたの逃げ果たせたんだよ。」と。怖い夢や過去の出来事から逃げることができたことを、確認する。ラストの三行では、救われる気になれるかもしれない。
「わたしは逃げたの逃げ果たせたんだよ。
 もう何も怖がることはないと自分に言い聞かせる
 横で眠る人の温かい手にそっと触れる」
 夢のなかで、トラウマが蘇り、自分にもう大丈夫と言い聞かせながら、理解ある、愛のある男の手を握って。きっと大丈夫。


 


詩誌評

詩の言葉たちと、その箱舟。

詩と思想2011年1・2合併号

 
 この年間で強く印象に残った誌は、「PO」「COAL SACK」「日本未来派」「宇宙詩人」「酒乱」「裳」「索通信」「ヒメーロス」「交野が原」「kader0d」「月暈」「左庭」「スーハ!」「イリヤ」「hotel 第2章」「すぴんくす」「hotel 第2章」「ひょうたん」「ガニメデ」「モーアシビ」「ぶらんこのり」「る」「Poem ROSETTA」「Eumenides II」「トルタ」「狼+」などがあった。
 例えば若手中堅の企画性を強く持った「酒乱」などは、テーマ性をもたせ討議・座談会や論考を載せていく。同じく若手で「kader0d」では批評、散文なども積極的に取り入れる。また「すぴんくす」は個性的な書き手の2人誌に一人のゲストを呼ぶ。若手で新鮮な印象の「月暈」。ベテランで「索通信」「る」など。「PO」「COAL SACK」「日本未来派」「宇宙詩人」など、会員が多い場合は、総合的な誌面作りになる。詩、エッセイ、評論、書評・誌評、読者投稿欄など。「PO」「宇宙詩人」では、現代韓国詩の特集を行う。アート系の遊び心としては「トルタ」。また、他ジャンルとのコラボの誌などもある。ネットやipadなど電子書籍の誌も登場し始める。メディアの発達に伴い、新しい誌のあり方や展開も今後出てくる。
では、最終回、いつものように順不同・敬称略で。
 
「虹」創刊号(編集発行人・豊岡史朗)
「やわらかな海」島田奈都子。
「起伏を/ひとの からだに起こすものは/やわらかな海の 恵み/水の底で 抱かれていた/その記憶を たどるように/あなたは/わたしの/ひんそうな からだのなかに/神秘の やすらぎをさがしていた」
海は命の源、母性、激しさと慈愛に満ちている。「やわらかな海」は包容力があり、少女の死体も受け入れて命をつなぐ。
「あらがうことを知らない/少女が 浮かんでいる/花びらであふれかえる水の中の死体/からだなど/尽きてしまおうと/魂を遺(のこ)そうと/翳(かげ)りある死を えらぶ」
広大な海はあらゆるものを包み込み、静かにときに激しい。
「ひとが/ひとと/ちいさな魚の そぶりをして/虹色の海底を夢見て/かぎりある やわらかな海を/およいで いるだけのこと」
  
「hotel 第2章」25(発行・hotelの会)
「かたづかない」川江一二三。
「まずい開け方でした/さぞ苦しかったのでしょう/幾枚かの皿が割れ 欠片が下着にこびりつきました/大きなバッグの中には血溜まりができています/なにがあったかは理解できました」
これは「そもそもわたしは仕舞い方がわからない女です」という話者に「どろどろに溶けながら/自分から男たちは箱に入っていきました」という、ブラックユーモアに満ちた作品である。たとえば自分を愛した男たちが、それぞれダンボール箱などに、梱包されて押し込められている。実際には、こころのなかの記憶に押し込められているのだろう。
「長い長い道中を/けたたましい叫び声をあげながら/箱どもが飛び上がります/わたしはすっかり楽しくなってしまい/げらげらと嗤い続けています/星が墜ちます」
思い出の男の数(叫び声・悲鳴)は、女の勲章の数かもしれないが、男から見ると、ちょいと痛い詩でもあった。
 
「ひょうたん」42(発行・ひょうたん倶楽部)
「止まり木」村野美優。
「その頃、わたしはよくバーのカウンターに座ってひとりでお酒を飲んでいました。カウンターのことを止まり木ともいいますね。この止まり木に止まりに来るのは酒飲みという鳥たちです。」
 バーでお酒を飲む女性らが、鳥みたいに騒がしい様子を描いている。モノカキの女性に、自分はある指摘をされて、
「さすがはモノカキ、「鳥籠を抱く鳥」だなんて・・・しかしなぜ見ず知らずのわたしにそんなことを言うのでしょう。もしかすると止まり木の反対の端に座っていたわたしを鏡と見間違えたのかもしれない」と。「酔っ払いという鳥」である。
 
「白亜紀」134(編集発行・白亜紀の会)
「春の肖像」北岡淳子。
「日よけ帽が男の眼を深い洞のように穿って向かい合う時間は言葉少なに過ぎるのだが それにしても 男の仕草のなんと敬虔なことだろう どうぞとすすめる珈琲を押し頂くようにゆっくりと口にはこび 香りを吸い込む その仕草は日常からは忘れられていたものだ」
 散文形式の三部構成の作品。一部では、物静かな男の仕草に関心をもつ様。二部では、男の背後の雑木林、そこに小鳥がいる。そして「男の眼の洞に小鳥がすっと舞い込んでいった」不可思議な光景を描く。三部では、「三年後 私はきっと約束を忘れている」という出だし。男のことや小鳥の声を思う。「醸された時間を大地に育てている男 千年前の私が きっと 世界ごと愛した男の 背が歩いて行く」と結ぶ。
「男」と「私」同様に、この詩も落ち着いていて、趣き深い。
 
「PO」138(編集・佐古祐二/発行・水口洋治)
「海がにじむ」宋在学(ソンジェハク)・詩/韓成禮(ハンソレ)・訳。
「海がにじむ 白い熊手の骨組は ヘラがあれば 耳がなく目がなく口はちびて鋭くないが 波の裸足で海がにじむ 私の小さな体にも水面があり海の話がある くたびれてうなだれた歩みだけを見れば 海の方は波の踵だ」
 生命力とエロス性を感じるその詩は、美しく豊かである。
 
「花」49(発行人・菊田守)
「春の山」岡田喜代子。
「張りめぐる/根のすみずみから/新鮮な水を吸いあげる/ 樹木」
「春の山」と男女の愛についてのダブルイメージ。
「「愛しているよ」と/ささやく くちびる/「うるさい だまれ」と/はきだす くちびる/最後に/「ああ」と/かたまる くちびる」
という第2連。以後も「春の山」を表側に、裏側に主に乳房など女性的な部分も含め、母性的なものを描いている。
「ほの甘い痛み を忘れない/にわかに芽吹くように 張ってくる/春の白い乳/自分のものではないような/おおきなおおきな/まるい ふたつの山/神さまのおっぱい」
 実は「山」は「神さまのおっぱい」であったという。柔らかで大きな詩であった。
 また中島登の「私の好きな詩人(15) 不滅のボードレール」なども懐かしく読めた。わたしも高校を卒業するころ、詩ではボードレールやランボーの翻訳詩を好んで読んでいたことがあった。あの頃の狂おしいほどの孤独を、思い出せた。
 
「折々の」(発行所「折々の」会)
「地表」松尾静明。
「夜の底で 犬が鳴いている
 犬の底で 夜が鳴いているのかもしれない」
「透明な声なので かなしいのか
 かなしいということは 透明になることであろうか」
 1連と2連を引用した。詩形的には、ある法則に従う。
 Aの底で Bが○○している。/Bの底で Aが○○しているのかもしれない。このパターンは最終7連でも見られる。
「夜の底で 犬が黙った
 犬の底で 夜が黙ったのかもしれない」
 またこういうパターンもある。Cなので Dなのか。/Dなので Cなのか。2連と5連がそれに当たる。
 左のような部分にもパターンがあり、3連と4連に当たる。
「鳴いているあの犬は
 生まれたときも 同じ声で鳴いたことがある
 生まれたことが かなしかったのか
 生まれた地表が かなしかったのか」
 これらのパターンの組み合わせで作られる。内容は、「地表」での〈夜〉と〈犬〉と〈犬の子どもを産んだ〉時の、〈かなしさ〉や〈声〉や〈透明さ〉や〈沈黙〉である。形式美と、夜に〈鳴く声〉と〈黙る〉で現される地表に生きるものの痛み。
 
「ゆんで」創刊号(発行人・弓田弓子)
「みずのをひも」広瀬弓。
「わたしたちはこすれ/こすれて…//光陰の反物のこぶあたり/紡ぎ糸のつかえた場所から/糸口を探りはじめる」
タイトルの「みずのをひも」とは「みずのおひも(=瑞の小佩)」のことであろうか。装束の小袖の上に結ぶ帯、下結う紐、小さい紐、あるいは下裳、下袴の紐など。次の連では、
「一世代前の女性の献身ぶりにはまったく頭が下がるわ。体の位置をこまめに替えて拭いてあげて、髭まで剃ってあげて、食べさせてあげて、食べた分出てくるものの後始末までしてあげるんだから、それも毎日よ。/わたしにできるかしら?/主婦の茶飲み話が聞こえてくる。」
またこのような連もある。
「だれ一人解き方を知らない紐の/結び目を解きほぐす女がいた/神の神秘に触れたのだから/女は神の嫁となった」
 ここでは、紐を解くことが神事にさえなっている。
また紐とは、衣の結ぶ紐でもあるが、
「「おうちにかえりたい」
「早く家に帰れますように」
ケアホームノ吹キ抜ケホールニ飾ラレタ笹ノ
金/銀/赤/白/ピンク/ミズイロ
短冊サラサラ
見知ラヌ爺チャン婆チャンガ手ヲ振ル」
 老人のための養護施設の、飾られた紐・短冊について触れている。その次の連では、おそらく老人におむつをしているその様子を描いている。また紐は、人の短冊を吊るす・結ぶものでもある。それらを感じさせる最終連が来る。
「男のような女のような人の短冊/結ばれ解かれ/紐の尾づかり合って//みずのをひもは連綿と//糸の細さに織り込まれて」
 細い糸によって、衣はつながれ、ひともつながれ、わたしたちの結びつきもまた連綿と、受け継がれていくのだろう。
 この「ゆんで」という誌は「弓手」、弓を持つ方の手が由来とのこと。広瀬弓と弓田弓子の2人誌。ともに「弓」の字。
 
「Junction」76(発行・草野信子)
「物語はきょうも」柴田三吉。
「物語なら何度でも書き直せる。はじまりから終わりまで、登場人物も、句読点さえもばらばらにして。物語ならばそこに入って生きることもできるから、わたしは書きかけの〈お話〉をいつまでも閉じることができない」
 そして次の連ではこう始まる。「けれど人生は推敲ができない」と。さらに深みと品のある語り口で、人生の妙を語る。
「いいえ、わたしたちは過ぎた日を、歩いた道を推敲しながら生きているの。物語は、きょうも追憶され、あしたのために整えられている。だからほら、わたしはいま、まだ記されていない日々を推敲することもできる」と結ぶ。
 生きるということは、自分の物語を記していくことでもある。記すこと、書くこと、推敲することとは、生きることでもあり、それはそれで苦しくも幸福であるのではないか。