書評
森野満之詩集『梢の夢』(土曜美術社出版販売)
詩と思想2008年3月号
「みずからの頭の重さに/手を焼くことはないか/頭をもたげてみて/また伏してしまうことはないか/頭は容器としてはいささか頼りなく/いさかいの記憶が逆流して/溢れ出してしまうことはないか」で、はじまる「波」という巻頭の詩。その「波」は押しては寄せる時間の象徴でもあり、比喩のようでもあり、苦みを感じさせながらも、落ち着いた重さで語られていて優れていると、感じられる。
森野さんは1945年中国東北部(長春)で生まれた。北海道の富良野市出身。現在は横浜にお住い。7冊目のベテランの詩集は、平明な言葉で、社会問題を扱う作品が目立つ。
3章構成で、1章では「一個の無念」で靖国神社合祀を、「概数」では戦死者が数字に置き換えられていることを、「アメリカのげっぷ」では、アメリカの「正義」の戦争・ベトナム・イラク、自由と民主主義などを扱う。
2章では性の問題を扱う。「女性の胸に」「裸の女」「古風な女」など。「女性の胸に」の第一連はくすりと笑ってしまうような。ユーモアは人間批判の「しっぽの言い分」にもタイトルや話者にある。コンピュータ問題の「欺瞞」。シニカルな妻からの、夫の夢分析「初老の男が若い女性に惚れられた理由」など。
3章は、散文詩で構成される。「ヨウナシ霊験記」では戦争の生き残りの男を、「難病」では死滅していく者の、無惨さがうかがえる。
腰の据わった作者の、世の中に目をそらすさずにいる態度を、わたしは好ましく思う。
書評
山口敦子詩集『沈黙のブルー』(土曜美術社出版販売)
詩と思想2008年4月号
タイトルにあるように“青”にちなんだ美術・芸術・土地など、例えば絵画や彫刻や詩文や建築物や洞窟などを題材にした三部構成の作品集。女性の横顔を描くカバー装画(岩田信一氏)も印象的。
Ⅰ部は「世界の青」。世界中の画家や詩人達の使う“青”、また海や洞窟などの“青”について書かれている。冒頭の「青の宝石」では文字通り、サファイアやトルコ石やオパール等の“青”について描かれる。「詩人トラークルと画家ルノワールの青」、モディリアーニ、デュフィ、クールベの絵の中の“青”等々。「地中海の青」。青づくし。
Ⅱ部は「心の糧」と題し、絵画や彫刻や建築について触れている。「エゴイズムの世界」では、アダムとイヴについて、「ムンクの叫び」ではその絵について。ラファエロやミケランジェロやピカソやゴッホやガウディほか多数の有名な美術、「パリの公園で」等。
「ムンクの叫びは/倒錯する生の/世界を崩壊させる」(「ムンクの叫び」より)
Ⅲ部は「日本の青」。日本の絵画や焼き物や童謡や写真や、惑星などの“青”について。岡本太郎、「プラネットブルー」等。
作者の山口敦子さんは保育園の経営者で、絵本作家で、詩人でもある多才な方。昭和十八年秋田に生まれ、絵を描くことや観ることがとても好きであったという。その興味や情熱がこの作品集にもよく現れている。
書評
香咲萌詩集『ほどけゆく季節の中で』(土曜美術社出版販売)
詩と思想2008年5月号
あけぼのの空にこだまする
うぐいすの初音
しいんと静まり返った庭に
明るい春の産声
冒頭に置かれた表題作でもある「ほどけゆく季節の中で」、春の訪れ、うぐいすのさえずりから子どもの頃に読んだ絵本や中国の話を思い起こす、そのような詩からこの作品集は始まる。一読してほのぼのとして癒されるような好印象を受ける。
「春」「夏」「秋」「冬」の季節ごとの四部構成(あるいは四章構成)となる。四季の花、草木、鳥、虫等を題材にした詩編から成る。
本の装丁も、作品世界も、そして筆名もまた季節感のある花を想わせる、柔らかく、あたたかな印象をもつ。桜色の表紙に白い花の装丁は瀟洒で、題字は作者自身の筆によるもの。
作者の香咲萌さんは京都出身のかたで、花やハーブを庭で育てている。こよなく自然や季節を愛しているのであろうと察せられる。
また「カラスさん」のようにユーモアを感じさせる詩編も収められている。
これは秋のゴミ捨て場に二羽のカラスが話者の脇を走っていく様に、「今日ばかりは/カラスは妙に/可愛い/ちょっと ちょっと/カラスさん/何だか呼び掛けたくなった」。
せわしいはずの朝の一光景が、途端に微笑ましくなり、優しい気持ちにもなれる。
書評
相良蒼生夫詩集『禁猟区』(横浜詩人会発行)
詩と思想2008年6月号
本文九十頁前後の二六編からなる詩集で、イメージの濃い言葉づかい、作品世界の重厚さに読み応えがあった。
作品集全体として、場としては「湾岸」「海」「船」「都市」「ビル」など、状況としては「戦争」、事としては「病」、物としては「橋」、人物としては「女」などが印象強い。
「愚かな神々」から冒頭部分の四行から。
「チグリスは暗冥の只中に流れ入り太陽のとどかない地に吸われる/暗緑色の砂嵐が荒ぶ 白昼暗い世界に六百の油井が/火吹く終末紀のはじまり 天を衝く火柱と煤と油煙と/欲望という人工庭園の燃えるガス体のなか 略奪と殺りく」(「愚かな神々」より)
チグリスの暗い世界、油井から炎と煙が煤とともに昇っていく様、人間の狂気と欲望の歴史などが感じ取れ、味わいが濃い。
表題作「禁猟区」では、湾岸部の紛争やテロが盛んな場であろうか、油の臭い、筋肉のてかり等、太陽と炎に焼けるさま、そのような強い印象を受ける。
「オムニバス 橋」は三編からなる作品。「朽木の橋」では戦争に我が子を行かせまいと願う母とそれでも出征していく息子。「大橋」では戦争で死んで還ってきた息子。「陸橋」では母が田舎から娘の嫁いだ大都会へと来た話。橋を舞台にやるせない母の気持ちがある。
総じて、ベテランらしい充実した力のある一冊であった。
書評
成田豊人詩集『箍(たが)』(komayumiの会)
詩と思想2008年7号
「この頃毎日の通勤に/またビートルズを聴くようになった/彼等が世界の若者を/一種の気違いにしていた頃/僕はまだ/マスターベーションしか知らず」(表題作の「箍」)
もちろん作者は「気違い」という表現を「虜(=心奪う)」という意味合いで使っている。この言葉は70年代まではよく使われていたが、後に放送禁止用語になり、日常的にもあまり使われなくなったとされる。ざっくばらんに回想を踏まえ、話しかけるような「箍」という作品に興味をもった。ビートルズも60年代から70年代の解散時まで世界的に流行ったバンドで、いま現在でも知らないひとはいない。また若いころの恋への関心について触れ、三十年近くたった後、バンドのメンバーであった老いたポール・マッカートニーをTVで観ながら、「人並みに」泣き笑いのわが身のことを思う。そして「そんな僕のことは/ポールは知るはずもない」と。良き青春時代を懐かしみつつ、苦くもある現実の自分を振り返り「この地球に/三人の子供を残したことの/意義と罪について考えることは/もはや/酩酊の次になっている。」と結ぶ。
二十三編からなる作品集。一九九七年に発表時の表題作「箍」から二〇〇七年までの十一年ほどの歳月に書かれたものを集めている。ほかに東北の地方を舞台にした作品「角館へ」「弘前・土手町界隈」ほかが収められる。また世界貿易センタービルのテロリズムを題材にした「スカイ・ハイ」など。
書評
中村不二夫・川中子義勝編『詩学入門』(土曜美術社出版販売)
詩と思想2008年8号
本文450頁ぐらいの厚みのある詩の入門書。三部構成で「21世紀 詩の可能性」「根源への遡行・詩生成の場へ」「抒情・造形・批評-詩的現実を目指して」とある。
日本詩人クラブの月例の講演会・研究会の講演記録を一冊にまとめたもの。
能や俳句、定家や芭蕉などの日本の古典からヴァレリーやシュールレアリズムなどの海外の詩、世界のマイノリティや日本の女性詩人の紹介など古今東西、平易であるが、深くもあり、また親しめる内容にもなっている。
一部では、マイノリティの詩、伊藤静雄、島崎藤村、米澤順子・慶光院芙沙子・滝口雅子に対する女性詩人たちの討論会、グローバリズム、「衰微する言葉と生命感」など。二部では、シュールレアリズム、能、遺伝子言語論、「李賀の詩を読みながら、現代詩の方向を探る」ほか、意味創発、ヴァレリー、「芭蕉と現代詩の間」、日本詩人クラブについて。三部では、抒情や先達詩人、「私離れ」の詩、詩と音楽、エルヴィス・プレスリーなど。
多くの講師達による多岐な分野からなる、詩の豊かな広がりと深さが展開される。
個人的には数ある話題の中、特に松浦寿輝氏の「シュルレアリスムと詩学」でシュールレアリズムの自動書記の実験と不運についての記述が興味深かった。ブルトンやデスノス等。他に芭蕉や能の辺りもおもしろく読めた。
書評
武士俣 勝司著『野が放つ』
詩と思想2008年10号
「暮れゆく冬空を切り裂いていくものがある
崩れつつ砕け散っていくものがある」
(「野が放つ」から冒頭部分)
タイトル、著者名、表題作から受ける印象は、いい意味での〝武骨さ〟。繊細さ・流麗さといったものの対極にあるような、骨太な感を受ける三部構成の作品集。
おそらくは五十代と思われる発話者が、夕刻の冬空の野を歩きながら、川原の白鷺を見ていたり、川沿いの電線の鳥の群れを見ていたりしている。目に映る自然の光景を見ながら、自身の人生を回想し、あるいは「私にまつわる事実」をかみしめているようなそのような表題作と受け取れる。その光景は「野が放つ光」により照らされるかのようでもある。
「すべては野が放つ光なのだ/だから たしかに 崩れゆくのは/寂れゆくかに見えた 日本の山河でもなく/私が語ろうとする 世界のカオスでもなく/五十年もとつおいつ生きてきた/私にまつわる事実というものの/あれこれなのだ」(「野が放つ」部分)と。
そして発話者の「だから 歩く/ただに歩く」というそれは、力強くもある。頑固さをもつ、武士のような男の姿、そして語らいがこちらに届いてくる。
他に「我が戦史考」などに興味を持った。いい意味で古風な感のある詩集である。
書評
大塚欽一著『大塚欽一詩集』(土曜美術社出版販売)
「詩と思想」2009年1・2月号掲載
第一詩集『紫陽花の賦』(一九九〇)から第十一詩集『これから生きる人々に』(二〇〇七)とエッセイ「現代詩における形而上的世界」他からの選集文庫。
作者は一九四三年生まれの小児科医でもある。
『紫陽花』は表題作の「紫陽花」から「熟れた石榴 のように醜く飛び出た/焦点の合わない大きな眼/それがあの子のすべてだった/わずか四、五歳の稚けない子の」の冒頭。末期白血病の子どもの過酷なまでの生きる、存在の姿に、作者は目をとめる。そして、ラストの、
「その日 病室の窓辺に一際大きな紫陽花が一輪/雨に濡れて定めなく揺れていた/六月」 で、浄化・昇華が行われる。世界は本来とても美しいはずなのに、現実の生きるということはなんと無惨な姿をときに現すのであろうか、とわたしは思った。
他者の痛みや苦しみや悲しみを静かに受け止めてくれる、そんな詩人であり、医者でもある作者の眼差しがあった。
すべての詩集に触れることは誌面の関係上とてもできないのだが、第二詩集の『非在の館』の「美しい獣」の激しくもエロティシズム性のある散文詩など、第三詩集『精霊船』の「手袋」の取り残された手袋の気品さ、第五詩集『存在の遙かな深処で』の「海の深みを思わせる……」は祈りのような、静けさのなかの存在の深さなど、力量のあるベテラン詩集のエッセンスをくみ取れ、堪能できる。
書評
前田利夫詩集『虚空に繁る木の歌』(土曜美術社出版販売)
詩と思想
冒頭の作品「かなしみ」を視る。「わたしは、かつてみずがない渇いた海原で、/孤独な一匹の幻魚の姿をしていた時に見た、/色とりどりの絵具をすべて混ぜ合わせた、漆黒の夕暮れのなかで、朦朧として浮き上がる白骨の黄昏と、共鳴していたかなしみを、無音の慟哭の声を上げて、今日も抱きしめている。」その詩は、ナイーブさに包まれた、幻のようでもあり、荒れた海の深みのようでもあり、傷ついた魚のようでもあり、カタイ岩のようでもあり、部屋の片すみで孤独とさびしさに震えている。
タイトルともなった「虚空に繁る木の歌」を視る。「序章」、霧のなかの巨木の群れを潜る「わたし」は、門の前で仏像に経文を唱える老婆たちに出会う。幻のような、夢のような、その霧のなかで、読み手は、「1」の「海原の話から始めよう。」という話者の声に誘われる。真夏の海、鳥の群れ、船、母、父、少年たち、そして「わたし」。再び、経文を唱え続ける老婆たち。「2」の「そうだ。都会の話をしよう。」という声に、楕円形にも見えるかの、いっせいに開かれているビルの窓と風に揺れるカーテン、その展開の鮮やかさ。
幻のような、夢のような詩の言葉たちが舞う。船、海、船、父、母、少年、老婆たち、孤独、荒野、都会、鳥、過去の記憶。読み手の視る詩の光景は、静かで深く豊かであり、それは収録作タイトルにもある「浮遊する夢の形状」のようなものでもあるかもしれない。